[27 三中通信隊暗号班(4)]大統領の死を傍受

暗号班にも出撃命令下る

 八重岳の本部では木造の兵舎内にあった暗号室は、真部岳に移動後は壕内に設けられていた。いつの間にか掘られており、ちょっとのことでは崩れそうもない堅固な壕だった。

 「しかし、石油ランプで鼻の穴は真っ黒。砲撃の合間の甲ら干しが楽しみだった」と国吉真昭さんは言う。

 ここでも少年たちに伝えられる兵隊たちの話は楽観的なものだった。「ここは苦戦をしているが石川までは日本軍で埋まっている」「皇軍はサンフランシスコに上陸、今ニューヨークを目指して突進中だ」。そんな“情報”の一つ一つに胸を躍らせて聞き入った。

 また、無線がルーズベルト大統領の死去を傍受した。その夜、切り込み隊が編成され、米軍のキャンプに「大統領死去」を伝えるビラが大量にまかれたという話も聞いた。「報道管制の下で戦っていた日本だから、それを伝えれば米国の兵隊も戦意喪失するだろうとの判断だったと思う。危険を冒しての切り込み隊だが、情報がオープンの米軍には当然のことながら効果がなかった」(前田泰弘さん)

 4月15日、暗号班にも出撃命令が下る。初めての戦闘だ。「訓練の時から暗号班が出るのは最後と教えられていたから、これでダメだと思った」と国吉さんは言う。出陣する時は身震いがしたともいう。

 真部山の頂上を目指して登る途中、道端の石に腰掛け、戦闘服に身を包み、軍刀を手にした宇土部隊長を見た。いつも半裸の姿しか見せず、しかも女性が周囲にいる姿しか見てない国吉さんも、この時ばかりは「頼もしい隊長に思えた」と言う。

 少年たちに銃はなく数個の手りゅう弾が渡されただけ。明るいうちに頂上に布陣したが、そのまま夜まで待機した。反対の南側のふもとでは戦闘が盛んに行われている。激しい機銃の音が休まず聞こえるし、砲弾がその音に強弱をつけていった。頂上にも時折、砲弾が飛んで来た。松の枝が鋭利な刃物で切ったようにサッと飛んで行く。

 夜になっても戦闘を始める気配はない。南側の斜面の木が燃え、照明弾がポンポン上がり、隣の顔まで見える。ふもとでの戦闘は続いている。三中の鉄血勤皇隊員らも加わっているはずだ。だが、その夜は戦うことなく、なぜか全員を引き揚げさせた。

 帰る途中、国吉さんは本部半島と伊江島との間に堂々と停泊している米軍艦を見た。「あんな大きな軍艦!」。那覇で生まれ育った国吉さんは、那覇港で海軍の艦船を見たことはあったが、その船はあまりにも大きかった。ほとんど見通しのない兵舎や壕内での生活で、外部を見ることがなかっただけに印象も強烈なものだった。

 翌16日、夜明け前に再び暗号班全員に集合命令が出た。中には前夜、出陣から引き揚げ、そのまま暗号任務についたのもいて、一睡もしていない。兵隊8人に三中暗号班が13人。壕の一番奥にある暗号班事務室に集められた。

 「本日、敵の総攻撃があり、わが暗号班も出撃する」―徳丸春雄中尉が命令を告げ、自らパインの缶詰を開けて全員に配った。少年たち一人一人に「一生懸命戦ってくれよ」と声をかけた。前田さんはその声がかすれていることに気づいた。生粋の軍人でないこの中尉も迫っている戦闘に恐怖感を隠しきれなかったかもしれない。その夜、真部山の頂上は前日とは一変した展開となった。13人の少年たちの運命も、その夜で決することになった。

(「戦禍を掘る」取材班)

1984年12月25日掲載

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