[29 三中通信隊暗号班(6)]負傷者を見捨てる

真部山で生死の間さ迷う

 真部山頂上に向かう時、三中の一団から「やられたー」の声を発したのは識名盛敏さんだった。国吉真昭さんが見ると左腕から血が流れている。タオルで止血、そばにいた前田朝善さん、中里(旧姓山城)邦夫さんらの手を借りて、ふもとの野戦病院まで運んだ。

 しかし、野戦病院には衛生兵が1人しかおらず「本部の野戦病院まで行け」と言う。「担架で運べ」と言い、四方から担げるように防衛隊員を1人つけてくれた。「だが、その防衛隊員は飛行機が来ると担架を放して逃げ出すから、識名君も放り出される。それをなだめたり、すかしたりして運んで行った」と国吉さんは言う。だんだん畑を運ぶ時は識名さんが痛みを訴えるので、体の大きかった国吉さんが背負って運んだ。3時間ほどかかって八重岳谷間の本部まで運ぶと3人は引き揚げた。

 「長い間、野戦病院の空き地に放置されたままで、治療などしようとしない。たまらず近くを通る人に『軍医を呼んで下さい』と頼んだら衛生兵が来て止血帯だけ巻いて帰った。このあと三高女の生徒にかつがれてトイレに行ったのは分かるが、そこで失神した」(識名さん)

 目がさめた時は看護婦のももを枕に寝ている。もうろうとしながらも、胸元の名札に「白」という1字だけが読めた。壕まで行くとようやく包帯を巻いてくれた。看護婦は夜、砂糖水を運んでくれた。

 その晩、看護婦の動きが急にあわただしくなった。親しい者同士が小声で話し合っている。そのうち軍医の声が聞こえる。「日本男児なら切腹して死ね」。それに向かって話しているのは伍長だった。「自分らを見捨てるのか」―泣いている声だ。泣き声はやがて壕内に充満した。本部を撤退、患者を置いていこうとしているのだった。

 翌朝、同じ病棟に眠っている曹長は、見おぼえがあった。前日、空き地にほったらかされている識名さんに衛生兵を呼んでくれた人だ。歯にはいっぱい金歯が入っている。礼を言うと、「お前だったか」とうなずいた。腰をやられているとのことだったが、2日目には口を開いたまま死んでいた。

 4月17日の朝、負傷者以外の姿は壕内になかった。本部に見捨てられた思いが多くの負傷者にあった。「自決しよう。だれか手りゅう弾を持っている者はいないか」と呼ぶ声。識名さんは1個胸元に忍ばせていたが、自決する気にもなれず黙って壕を出た。

 病院の倉庫に行くと、食料が豊富にあり驚いた。長い間味わったことのない缶詰を銃剣で突き刺して穴を開け、夢中でほおばった。

 2日ほどたったころ、こちらに向かって来る者がいる。両足と片手をやられているのだろうか、片手を支えにシリを地にすりながらやって来る。年老いた顔だが、見たような気もするので話しかけてみた。「お宅の親せきで三中に金城勇というのはいませんか」。

 相手は驚き、「おれが金城勇だ。お前は?」と問い返し、「大山だ(識名さんの旧姓)」と答えると、ワアッと泣き崩れた。

 「真部山の総攻撃から4日ぐらいしかたってない。戦闘を体験、普通1時間ほどの距離を4日がかりでやって来た。生死をさ迷う間に2人とも顔つきが変わってしまっていたのだろう」

 その後2人はまた別れる。米軍が付近に現れて来たからだ。識名さんは必死に逃げた。後方からは機銃掃射のあと、パチパチと火の燃える音、そしてドシーンと壕を爆破する音が聞こえた。走りながら後ろを見ると金城勇さんが避難民に背負われて逃げて行くのが見え安心した。

 しかし、その後の金城さんを見た者はいない。識名さんは5月中旬、米軍に収容された。

(「戦禍を掘る」取材班)

1984年12月27日掲載

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