[30 三中通信隊暗号班(7)]「重傷者、学生は残れ

命令に従わないと切る」

 識名盛敏さんを野戦病院まで運んだ国吉真昭さん、前田朝善さん、中里邦夫さんの3人は、真部山の戦闘に参加するため引き返したが、途中会った兵隊らに「あそこは全滅だから行くな」と止められた。

 やむなく暗号室の壕に戻り、しばらく待っていると暗号書処分のため、残されていた玉城一昌さんがやって来る。やがて長友兵長も戻って来たが、ひどくおびえている。「訓練中あれほど厳しかった人が憶病と思えるほど。私らが来るまで暗号書も処分できないくらいだったから…。私らを見て暗号書処分を決心したようだったが、まだ私がガソリンをまいている時に、いきなり火をつけ、危うく大やけどするところだった。それほど落ち着きを失っていた」(国吉さん)。長友兵長はこのあと学生を残して一人で行動した。

 八重岳本部まで行くと、そこは人であふれている。宇土部隊ばかりでなく、中南部からの兵がいるし、防衛隊員、避難民もいる。これら集団の中から「読谷を友軍が奪回した」との声が聞こえるし、「間もなく援軍が来る」とも言う。4人はここで前田泰弘さん、島武久さんらと会った。

 真部山の敵に夜襲をかけるという情報がもたらされた時、前田さんは「学生のとむらい合戦ができる」と意気込んだ。

 だが、事態はそういうふうには展開しなかった。本部前への集合命令があり、行ってみると数百人の兵隊の前で宇土支隊長は期待に反することを言う。「幾多の兵を失い、座して待つより、多野岳に撤退して再起を図る」

 次の言葉はさらにショックを与えた。「歩ける者は歩き、重傷者は置いとけ。主計と学生も残れ。命令に従わない者は斬(き)る」

 すでに指揮官を失い、兵はバラバラ、少年たちだけが取り残されたようになっていたが、そのうえ敵が目前に迫っている場所に置き去りにしようとしている。命令通りにすれば米軍の銃弾にやられる。そむけば命令違反で斬られる―途方に暮れた。木の下でぼう然としたまま、隊列を整え去っていく兵隊らを見送らなければならなかった。

 いくつかの隊列が目の前を通り過ぎた時、ふと見ると無線機を担いだ一団がある。32軍直轄の通称「軍無線」と呼ばれている一隊だ。それに気づいた時、向こうの方から先に声がした。「おい、みんなこんな所で何をしているんだ」。顔見知りの軍曹だった。

 事情を説明すると、「一緒について来い」といとも簡単に言う。鉄かぶとをかぶせたり、無線機や発電機を背負わせて、カムフラージュもした。1人ずつ隊列の間にはさみながら進んだ。陣地入り口には部隊長はじめ将校らが抜刀して、命令違反者を探し出していたが、その軍曹は平然と挙手して進み、見つかることはなかった。

 その後、羽地の薬草園付近で米軍の攻撃を受け、一隊は散り散りとなった。軍曹の名前を前田さんは忘れたという。国吉さんは「デキタ軍曹、和田兵長」と記憶している。「薬草園で戦死したかもしれないが、われわれの命の恩人だ」と言う。6人は無事に終戦を迎えることができた。

   ◇   ◇

 戦後間もなく前田さんは真部山を訪ねたことがある。茂みの中に足を踏み入れた時、斜面に横たわった二つの遺骨があった。1体は他の1体のひざにうずくまるように倒れていた。傍らには眼鏡があり、印鑑もあった。そのままにして引き揚げたが、前田さんは「印鑑には上山とあったから上山軍曹、眼鏡は坂口1等兵のものだったに違いない」と言う。

 激しい戦闘の行われた真部山は今、雑木、雑草が生い茂って近づくこともできず、遠くから眺めることしかできない。

(「戦禍を掘る」取材班)

1984年12月28日掲載

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