<未来に伝える沖縄戦>密林をはだしで避難 當真洋一さん(77)下


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「戦争の時は、自分は死んでもいいと思い、だから敵も殺していいと思っている。そんな状況をつくらないことが大切だ」と語る當真洋一さん=7日、宜野座村の當真さんの自宅

 《日に日に近くで機関銃の音が聞こえるようになり、分校も危なくなったため、當真さん一家は山へ避難することになります》

 ジャングルを歩き始めて4キロ地点からだんだん食料が底を突き始めた。米軍の迫撃砲がブーンとあっちこっち破裂して、木がメリメリと倒れて、兵隊が血だらけになって倒れたり、泥をかぶったりしていた。

 僕は一番下の妹をおんぶしながら逃げていたが、ある日、米軍機グラマンに見つかってしまった。これはもうやられたなぁと思ったが、低空で飛んできても撃たなかった。道もぬかるみが続き、靴もいつ脱げたか分からなくなって、はだしで歩いていた。毎日雨が降り、ヒルが何匹も足についていた。それを剥がしながら歩いた。
 食料を探しに行った父がある日、水牛が死んでいるのを見つけたが、肉はもうほかの人に取られていて、骨を少しと、水牛の皮を持って帰ってきた。真っ黒い水牛の皮は、一晩中煮てもやっと生ゴムぐらいの硬さで、臭くて大変だったが食べないと死ぬから食べた。山の中でトイレをしていた時、地面で餌を持って歩いているアリを見ながら「爆弾におびえて逃げ回る必要がない。こいつらのほうが俺より幸福じゃないかなぁ」と思ったこともあった。

※続きは7月29日付紙面をご覧ください。