<未来に伝える沖縄戦>学校接収、御嶽で勉強 上地洋子さん(79)上


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上地洋子さん(左)の戦争体験に聞き入る下地涼香さん=宮古島市平良の自宅

 宮古島市平良に住む上地洋子さん(79)は1944年、砂川国民学校(現・砂川小学校)4年の時に宮古島で10・10空襲を体験しました。以来、1年近くに及んだ戦争体験と疎開先での生活の様子を、宮古高校2年の下地涼香さん(16)が聞きました。

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 太平洋戦争は私が小学校1年生の12月に始まったが、3年生までは大きな変化がないまま暮らしていた。動きがあったのは4年生の夏休み前後だったと思う。宮古防衛のため、日本軍約3万人が島に入ってきた。この人たちが住む所がないといって、砂川国民学校が接収された。当時大きな建物といったら学校しかなかった。宮古島のほとんどの学校が兵舎に取られたと思う。勉強する場所がなくなった私たちは、御嶽などで勉強した。
 このころ私の家族は台湾疎開を予定していたが、妹が発病して行けなくなった。そこで両親は、学校側の勧めで私の学童疎開を承諾したようだが、これも実現しなかった。砂川からは他に疎開を希望する人がいなかったようで、学童疎開がなくなったようだ。

 《開戦後しばらくは平穏だった宮古島ですが、多くの軍人が入ったことや動員、徴用により、物資不足や生産力が低下し、日常生活は急速に苦しくなっていきます。10・10空襲では主に島内の空港や港が爆撃を受けました。その後も宮古島はたびたび米軍の空襲に遭うようになり、人々も翻弄されていきます》

 そうこうしている間に、10月10日、初めての空襲があった。午前7時半ごろ、登校途中に頭の上を編隊を組んで飛ぶ飛行機が見えた。みんな友軍機が演習していると思っていた。私たちはあまり飛行機を見たことがないので、どこの国の飛行機かとか分からなかった。学校に向かい続けていたら、道で出会った知り合いのおじさんが「今のは敵の飛行機らしいよ。早くお家に帰りなさい」と言うもんだから、急いで家に帰った。家では親が心配して待っており、庭の防空壕に入った。

※続きは10月25日付紙面をご覧ください。