<メディア時評・編集と経営の分離>守れるか「独立性」 報道界全体で議論必要

 朝日新聞をめぐる「誤報」騒動は、年末から年明けにかけていくつかの報告書とそれに対する社の見解が発表され、取りあえず一段落がついた形になった。表向きは、吉田証言と吉田調書という慰安婦や福島原発事故をめぐる報道における、朝日新聞の紙面や対応が問題とされたわけであるが、その裏にはジャーナリズムの根源的な問題が伏在していた。

その一つが、「編集と経営の分離」という報道機関が抱える、古くて新しい難問である。

独立性

 言論報道機関が「社会の木鐸(ぼくたく)」として、読者・市民の知る権利の代行者であるには、可能な限り完全な報道の自由が確保されている必要がある。その要件として外せないものが「独立性」で、強き者におもねらず権力監視を継続するためには、いかに時の為政者から独立しているかが問われることになる。
 そのためには財務的な自立が必要で、継続的安定的な経営が、自由な報道を行うことができる強靭(きょうじん)な足腰を支えることになる。
 しかし同時に、その財務・経営上の足かせが、報道の自由を縛る場合も起きうる。たとえば、広告主の顔色をうかがい、記事や番組に手心を加えることもないとは言えないし、社のオーナーや株主が報道内容に口出しをしたのでは、報道内容の独立性は簡単に吹っ飛んでしまう。
 そこでできた基本原則が「経営と編集の分離」で、経営者は日々の紙面や番組には口出しをしないという約束事である。こうした外部からの圧力に対する独立と、内部的な干渉からの独立を合わせて「編集権の独立」とし、報道の自由を支える重要な柱と考えられてきた。
 ただし現実はそう簡単ではなく、常に時代や社会状況、あるいは歴史的文化的背景の中で、この原則は翻弄(ほんろう)されることになる。もちろんもっとも大きな危機は、為政者が牙をむいて編集に介入してきた場合であり、戦争に代表される国益の押しつけによって、新聞社や放送局は簡単に国家のための広報機関になってしまう。それはもちろん、露骨な強制を伴う場合ばかりではなく、政府が有する人事権を介したり、国家助成を取引材料にしたりとさまざまだ。
 過去のそうした経験があるからこそ、昨今のNHK会長人事や消費税の税率引き上げに伴う新聞や出版物に対する軽減税率の導入に際しては、「疑い」をもたれないような公権力側の謙抑性とともに、権力介入のきっかけにならないための周到な準備や気構えが、報道機関側には求められることになる。
 あるいはそういうことがあってもなお、報道の自由が微塵(みじん)も影響を受けないためには、むしろ内部的な独立としての「経営と編集の分離」が求められることになるといえるだろう。

編集権声明の足かせ

 しかし現実には、こうした分離を守ることは日本において大変難しい現実がある。
 その一つには、報道機関自らが定めた「編集権声明」と呼ばれる歴史的取り決めがあるからだ。戦後すぐの段階で報道機関の共産化を防ぐため、GHQの影響下にあった報道界は、紙面内容の最終的な責任者は経営者にあることを宣言し、労働組合争議などの延長線上で編集権を従業員が有することにならないための「歯止め」を作った。今回の12月26日付の「第三者委員会の報告書に対する朝日新聞社の見解と取り組み」(以下、社見解)でも引用されている「新聞企業が法人組織の場合には取締役会、理事会などが経営管理者として編集権行使の主体となる」という一文だ。
 その結果、経営的観点から問題があると思えば、事実上、経営者は報道内容に口出しができることになる。実際、NHKの慰安婦を扱った番組をめぐって政治家の介入があったとして争われた事案で、裁判所は事実上、編集権を対外的な独立を守るものとして位置づけ、経営陣の現場に対する番組変更の指示を問題なしとした。
 前述の社見解で「経営陣は編集の独立を尊重し、原則として記事や論説の内容に介入することはしません」としているのは、まさにその延長線上にあるといえるだろう(1月5日「『ともに考え、ともにつくるメディアへ』信頼回復と再生のための行動計画」(以下、計画)で社方針として同趣旨を発表)。
 社見解では続けて、関与の責任の明確性や介入の場合のルール化などを掲げているが、従来の大原則に変更はないといえ、その限りにおいて「分離」は中途半端なものになるざるを得ない心配が残る。むしろ、編集権声明の抜本的見直しこそが求められているのではなかろうか。また、見解を受けて計画では「パブリックエディター制度」や「社外の複数の有識者で構成する常設機関」といった、さらに新しい組織を作ることを明らかにした。ここで「さらに」としたのは、すでに朝日新聞社は「紙面審議会」と「報道と人権委員会」という二つの常設機関を有しているからだ。
 今回、新設を決めた二つの制度・機関はいずれも外部委員を含むもので、これらは意思決定の公正性や透明性に資するであろう。一方で、外部からの意見や助言を複数ルートで取り入れることで、権能の切り分けがどうなるのかも含め、一番の眼目である「独立性」を守るものになりうるのかは不透明である。

カウンシルの可能性

 ほかにも、日本の場合は経営者がほぼイコール編集現場のOBであって、しかも編集責任者の元上司であるという人的関係に縛られる場合が少なくない。影響を排除するということが、極めて難しいということである。
 さらには、「主筆」という名の紙面統括者が置かれている場合も少なくなく、一般には役員であることが多いことから取締役会メンバーであって、経営陣の一角を占めるなど、整理が必要なことが少なくない。同様の問題は、編集責任者(たとえば報道局長や編集局長)が役員(取締役や執行役員)である場合にも生じる。
 一方で、事後的であっても外部の意見で紙面内容の成否が判断されることは編集権の侵害になる、として頑(かたく)なに拒んできた組織・権能の存在を認めたことは注目される。海外では表現の自由擁護や報道倫理の向上、あるいは苦情処理に一役買っている、プレスカウンシルやオンブズマンと呼ばれる第三者機関の設置に、今回の見解や行動計画が弾みになる可能性があるからだ。少なくとも、新設されるパブリックエディターは、読者の立場に立った紙面チェックや苦情対応が求められているのであって、これらはまさにカウンシルの仕事そのものであるともいえる。
 すでに訂正記事の書き方は朝日新聞以外の社も含め見直しが始まっているが、そうした意味でも今回の問題は、報道界全体で議論すべきテーマを明らかにしてくれたものといえるだろう。
(山田健太、専修大学教授・言論法)