<未来に伝える沖縄戦>先輩と共に兵士の看護 与那覇百子さん(86)上


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与那覇(旧姓・上地)百子さん(左)の戦争体験に聞き入る渡口梨子さん(中央)と棚原きららさん=1月31日、糸満市のひめゆり平和祈念資料館

 那覇市の与那覇(旧姓・上地)百子さん(86)は、16歳のころに沖縄戦を経験しました。当時、沖縄師範学校女子部予科3年生だった与那覇さんは1945年3月、南風原の沖縄陸軍病院へ動員されました。米軍の爆撃により友人を失い、その後は南部へ向かい、喜屋武海岸で米軍に収容されます。与那覇さんの戦争体験を興南中学校3年生の棚原きららさん(15)と渡口梨子さん(15)が聞きました。

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 先生に連れられて沖縄陸軍病院に行ったの。ピクニックみたいにみんなでキャーキャー騒ぎながらね。15、6人くらいだった。15歳から19歳までの若い子たちだからね。歩きながらも聞こえてくるのは、爆弾が海に落ちるドカーン、ドカーンという音。船にぶつかると火柱を上げて爆発したりするでしょう。「どこのどういう船だろうか。かわいそうにね」と思っていた。

 《沖縄陸軍病院に到着すると、陣地構築や壕掘り作業が待っていました。作業は3日程度で終了し、与那覇さんは沖縄陸軍病院第1外科の14号壕への配属が決まります》

 14号壕は一番小さい壕じゃなかったかな。入院している兵隊が約20人いた。私の相棒は1期上の上地貞子さん。先生方は最初「看護婦の手伝いをするために行く。看護婦さんが何でも教えてくれるから、心配することはない」と言っていた。私たちは楽しみ半分で行くんだけれども、状況は全く違った。看護婦は来ない。お医者さんももちろん来ない。その壕では、私と貞子さんの2人だけで兵隊を診るのよ。やったこともない仕事で、本当にびっくりした。

※続きは2月28日付紙面をご覧ください。