座間味「集団自決」から70年 迫る米兵、山さまよう


社会
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慶留間島内の直筆の地図で、自身の逃げた道のりを示す中村茂さん=23日、那覇市真嘉比

 海岸線を覆うように連なり、島に近づく米軍艦。座間味村慶留間の集落近くの防空壕に祖母、2人の姉と共に隠れていた中村茂さん(85)=当時15歳=は1945年3月26日朝、海上の異様な光景に息をのんだ。戦車揚陸艦の前方が開き、中から海上に出た水陸両用戦車が次々と上陸し始めた。

 中村さんと家族が山へ避難し、ウンザガーラ横の壕に逃げ込むと、すでに多くの住民がいた。壕に身を隠したが、米兵がすぐ近くまで迫っていた。再び山に逃げ込んだが、祖母のウトさん、六つ上の姉・八重子さんを見失った。中村さんは三つ上の姉・照子さんや住民らと山をさまよい、山頂のサーバルで横穴を見つけた。入り口には首を絞め合った3、4人の死体が横たわり、顔はぱんぱんに腫れていた。「集団自決」(強制集団死)が起きていた。「私たちも早く死なないと」。住民らはふらふらと歩き出し、別の防空壕を見つけた。
 「ここで死のう」親たちが次々に自分の子を手に掛け始めた。照子さんが「茂、早く絞めて」と自分の首を絞めるようせがんだ。中村さんは言われるまま、姉の首をひもで絞めた。「嫌だ、怖いと思う余裕もなかった。ただ早く殺して、自分も死にたかった」
 あまりの苦しさに、照子さんは自分でひもを外そうとしたが、何度も絞め直した。照子さんが倒れると、中村さんは自分の首をひもで絞めた。意識が遠のく中、まだ生きていた照子さんに「まだよ、待って」と揺り動かされ、意識を取り戻した。「これでは死ねない」と照子さんと共に再び山中に戻り、八重子さんやウトさんと再会した。
 家族や住民と山中をさまよう中、島北側の崖に行き着いた。眼下の海には米軍艦。「生き残ったのは自分たちだけだ。ここが死に場所だ」。クバの葉をちぎって結び、木の枝にくくって首を掛け、足を滑らせようとした、その時だった。「待て、待て」という声が聞こえた。現れた年配の女性が「ほかの人も生きている。捕虜になっても殺されない」と教えてくれた。
 極度に追い詰められた当時の心情を「米軍に捕まったら男は殺され、女は乱暴される、米軍に捕まる前に死ぬもんだとしか考えていなかった」と振り返る。
 中村さんはモデル・知花くららさん(32)の祖父だ。「孫にはまだ、戦争体験を詳しく話していない。でも生き延びたから、子や孫がいる。捕虜になって初めて思えたことだが生きててよかった」とかみしめるように言った。
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 45年3月26日、座間味島などに米軍が上陸した。座間味では同日、渡嘉敷では28日に「集団自決」(強制集団死)が発生。県内の他の地域でも起きた。70年前の悲劇を思い起こし、体験者が減りゆく中どのように記憶を継承していくかを考える。