<未来に伝える沖縄戦>8月までガマに隠れる 富名腰義春さん(81)〈5〉


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ガマの前で当時の様子を語る富名腰義春さん=26日、浦添市当山

 《ひいおじいさんが亡くなった後も富名腰義春さん(81)=宜野湾市=と妹のツル子さん、ひいおばあさんはガマで暮らしました。しばらくは地上にも出ていました》
 宜野湾まで米軍が来ると聞いて、ガマの中にいるようになったよ。嘉数の戦いの時には、地下にいると砲弾の音も聞こえないし、外がどうなっているのか分からなかった。

 《ある時、日本軍のいるガマの側が攻撃を受け、爆風が吹いてきました。石部隊が南部に行き、別部隊がガマに入った翌朝でした》
 早朝の午前5時くらいだったと思う。生ぬるい風が吹いて、何日かたってから、ガマの中を歩くと体中がかゆくなった。よく見たら上半身にうじが付いていた。奥にいた日本兵が亡くなり、水と一緒にこちらに流れていたんだ。生ぬるい風は爆風か何かだったと思う。それ以降、地上に行くには胸まで漬かる水を通るしかないため、外に出なくなった。
 私たちは、ガマにずっといたので戦火が収まったことを知らずに、6月23日を過ぎてからも8月ごろまではずっとガマの中にいた。
 ひいおじいさんは那覇の西新町で旅館を営んでいたから食糧や布団があり、米軍が来る前にガマの中に持ち込んでいた。ガマの中では、岩の上に布団を敷いていた。食糧もあったから長く生活できた。ガマの中の水にわずかなお米をすりつぶして飲んでいた。空腹の限度を超えていて、ひもじいと感じることがないほどだったよ。

※続きは3月29日付紙面をご覧ください。