『永い言い訳』西川美和著


社会
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世界は違和感で出来ている
 釣り合いが、とれている。悲劇と、そうでないものとの釣り合いが。互いに等しいという意味ではない。やや、悲劇の方が重い。たやすく癒やしなど訪れない。それくらいが、今私たちが立っている、この世界の均衡に近いと思う。

 バスの事故で妻を失った男の話だ。遺品を見せられても彼は、それが妻のものであるのかどうだかわからない。亡き妻を思って慟哭することもできない。周囲が訝るほど、彼は淡々と日々を重ねる。まるで何もなかったみたいに。最初から独りで生きていたみたいに。
 やがて彼は、妻とともに命を落とした親友の夫とその子どもたちに出会う。長距離トラック運転手の夫が仕事に出ている間の子守を、主人公は買って出る。子どもという生き物に触れたことがなかった彼は大いに戸惑う。奮闘する。今までになかった日々を経て、主人公の心は変容し始める。
 ああなるほどね、「子どもたちとのふれあいによって心を癒やす大人の物語」なわけだ。……もしそう思われたのなら、それはちょっと違う。この物語は全編、かすかな違和感によって編まれている。語り手が目まぐるしく変わるからだろうか。主人公本人だったり、妻だったり、彼のマネジャーだったり、少年だったり。人は、自分の目のみで世界を見ている。それぞれの目に映る景色はまるで違うけれど、でもひとつだけ共通点を挙げるとしたら、彼らの世界はすみっこの方に、いつも違和感を孕んでいるのだ。いつもならここにいるはずの女たちがいないこと。喪失の当事者たちにとっての、そうでない人たちからの色眼鏡そして語り口。いや、ひょっとしたら彼らが抱く違和感は、喪失以前からのものかもしれない。世界は決して自分にフィットなんてしない。収めるべき枠の中に収めきれない自分に難儀しながら、彼らは生きている。
 そして事態は何の前触れもなく裏返る。子どもたちとの生活にようやく自分の居場所を獲得したはずの主人公も、ある事態を機に、あっけなくその居場所を去る。自分が必要とされていようがいまいが静かに生きていた男が、いや自分は子どもたちに必要とされているのだという喜びに酔いしれ、でもほんの些細な理由でその場所を離れ本当にひとりになって、ようやく「書く」という選択肢を取るまでのプロセス。果たしてどの時点を「再生」と呼ぶのか。わからない。というか、たぶんそんなボーダーラインは存在しない。できることは、ただ、何を得て何を失おうとも、生きていくことのみである。
 (文芸春秋 1600円+税)=小川志津子
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小川志津子のプロフィル
 おがわ・しづこ 1973年神奈川県出身。フリーライター。第2次ベビーブームのピーク年に生まれ、受験という受験が過酷に行き過ぎ、社会に出たとたんにバブルがはじけ、どんな波にも乗りきれないまま40代に突入。それでも幸せ探しはやめません。
(共同通信)

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