『1964年のジャイアント馬場』 馬場流哲学の神髄示す


社会
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『1964年のジャイアント馬場』柳澤健著 双葉社・1900円+税

 スペル・デルフィン主宰のプロレス団体「沖縄プロレス」が那覇の国際通りから消えて2年がたった。来沖した時には訪れていた場所だったので、残念な知らせだった。プロレスはアメリカ文化の象徴的存在だが、アメリカ占領時代を経た沖縄でのプロレス人気はどうなのだろう。

 戦後、力道山の活躍でプロレスは娯楽として人気を博し、その後、馬場と猪木という2人の天才が対立関係にあったことが、日本のプロレスを巨大にしたとしている。
 ジャイアント馬場は本書の宣伝文句で「昔、メジャーリーガーのイチローよりも有名な日本人がアメリカにいた」とうたわれているように、1963年にプロスポーツの殿堂「マジソン・スクエア・ガーデン」や全米各地で激闘を演じ、その強さはマフィアも恐れた存在になる。
 興味深いのは、馬場が口約束を信用しなかったエピソードで、アメリカで活躍したギャラを踏み倒そうとした力道山に、新人レスラーの馬場が借用書を書かせた件(くだり)だ。アメリカでレスリング以上に契約の大切さや生きていくすべを知ったことが分かる。
 馬場は読売ジャイアンツの2軍投手時代に、3年連続して優秀投手を獲得し将来を嘱望されていたが、宿舎の風呂で転び腕を負傷して引退した。しかし理由はそれだけでなく、馬場をキワモノ扱いした野球界の体質にもメスが入れられている。
 野球選手での挫折からプロレスラーとして勝利者となる自己プロデュースには馬場流哲学があり、本書を読んでその神髄を知ってほしい。
 一時期プロレスの灯が消えた沖縄に、ルチャリブレ(覆面レスラーが登場し空中殺法で戦う)スタイルの「琉球ドラゴンプロレス」が生まれた。近年、沖縄には外国人を集客するための観光資源が求められているが、プロレスは立派な観光資源になる。力道山のプロレスが日本の戦後復興に大きな役割を果たしていたように、2015年に馬場が生きていたら、沖縄の観光資源としてアジアからの観光客に「プロレスをプロデュース」するかもしれない。本書を読むとそんな気持ちにさせてくれる。
 (吉田啓・作家、メディアプロデューサー)
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 やなぎさわ・たけし 1960年、東京都生まれ。慶応大学卒。文藝春秋に入社し「週刊文春」「Sports Graphic Number」編集部などに在籍。2003年からフリーとして活動。 

1964年のジャイアント馬場
柳澤 健
双葉社
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