<未来に伝える沖縄戦>鬼を見た避難の道のり 新田宗信さん(80)〈5〉


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自身の戦争体験を語る新田宗信さん=18日午後、北谷町の栄口公民館

 《新田宗信さんの母ツルさんは、1945年4月に沖縄本島に上陸した米兵に保護されました。新田さんは姉や妹たちと一緒に親戚と合流して、南部を目指そうとしました》

 (北中城村の)瑞慶覧で母が保護された後、親戚たちと合流した。味方のいる南部に行けば安全だと教え込まれていたので、総勢10人ぐらいで移動した。普天間方面に向けて進んで行くと、通り道が破壊されて段差ができており、小さい子どもたちには通れないような状況だった。それで親戚たちは別行動をとり、私たちを置いて行った。人間の心は置かれた状況によっては鬼にもなるのだと思った。南部に向かった親戚の家族は全滅してしまった。今にしてみれば、行かなくて良かったと思う。
 母が保護されて後の2、3日の間に私たちも瑞慶覧で米兵に保護され、島袋(北中城村)の収容所に連れて行かれた。私と姉妹4人で行動していたが、私が保護された時、すぐ上の姉が1人で逃げ出して、何日か後に保護されて収容所で再会した。先に収容所に連れてこられた母は、子どもたちが運ばれてこないか毎日捜し回っていたらしい。家族がそろった時にはとても喜んだが、同時に戦地へ行っている兄たちが気掛かりになって、不安な気持ちになった。

 《新田さんの家族は奇跡的に収容所で再会しました。しかし、日本軍の残兵が収容所に攻撃しに来ることがあったため、落ち着く間もなく宜野座村福山の収容所に移動させられました》

 福山の収容所は何もない広場で、テントの支給もなく、木の下にむしろを敷いて寝泊まりした。その後自分たちでかやぶきの家を造って、土の上に木や竹を敷いて寝床を確保した。母や姉は、宜野座の人たちと物々交換して、着物を芋や野菜に換えていた。塩も買える状況ではなかったので、今の漢那辺りで海水をくんできて、鍋で炊いて塩を作った。

※続きは5月24日付紙面をご覧ください。