沖縄戦元隊員証言、護郷隊少年兵が互いに制裁


社会
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 沖縄戦で大本営がゲリラ戦を目的として、やんばる地域の十代の少年らを集めて組織した「護郷隊」の一部で、上官の命令により少年同士による制裁が行われていた実態があったことが分かった。名護市教育委員会の市史編さん係嘱託員、川満彰さんが複数の関係者から証言を得た。

少年らの中には仲間の射殺を命じられ、実行していたケースもあるという。「上官絶対」の軍事論理が少年らを支配していた現実が浮き彫りになった。
 護郷隊は、米軍の沖縄上陸を見据え、1944年秋から召集が始まった。少年らは幼なじみの5、6人のグループに分けられ、在郷軍人が上官として訓練指導に当たったとされる。爆弾を持っての体当たりや背後からの急襲といったゲリラ戦の訓練が昼夜問わず実施される一方、山や谷、民家があってもひたすら直進するといった訓練も課された。その課程で上官への服従や全体責任を押し付ける軍事論理の浸透も図られたとみられる。
 川満さんや元隊員の証言によると、少年らは地域の幼なじみだったため、結束が固かったという。しかし、上官が同じグループの別の少年を殴るよう指示し、少年が従ったケースもあった。結果として少年が少年を制裁し合う構図が生まれていったという。
 その中にはスパイ嫌疑がかけられた少年の射殺も含まれており、上官の命令により複数の少年が目隠しをされた仲間に対して一斉に銃を発射。犠牲になった少年は集合時間に遅れただけだったという。
 軍事教育は徹底していたが、実際に沖縄戦が始まると、少年らの親戚や知人が米軍に投降して近くの収容区に入っていたことから隊を無断で離脱するケースが相次いだ。地域の結び付きの強さを裏付ける一方、少年同士の制裁は終戦後も大きな影響を地域に与えた可能性がある。川満さんは「軍事論理により、地域の人たちが苦しみ続けるということを学んでいくべきなのではないか」と話した。
(中里顕、阪口彩子)

<用語>護郷隊
 主にやんばる地域の十代の少年らで組織された第三、第四遊撃隊の秘密名。それぞれ第一護郷隊、第二護郷隊と称した。スパイ養成機関として知られる陸軍中野学校出身の将校が派遣され、主に同地域を中心にゲリラ戦を展開することが任務とされた。地の利を生かす狙いがあったが、全く知らない土地に配置された少年も多く、162人が戦死した。