検証 基地をめぐる「誤解」:普天間には戦前から集落


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現在は普天間飛行場の滑走路になっている宜野湾馬場周辺の松の木の下に腰掛ける人たち。「サーターヤー」と呼ばれた製糖工場も近くにあったという=1941年撮影(宜野湾郷友会写真集『じのーんどぅーむら』より)

 普天間飛行場が市街地の真ん中にある状況について「普天間にはもともと田畑で人はおらず、基地ができた後に周りに移り住んだ」とする言説が聞かれる。実際には「普天間」がある場所は戦前、集落が広がり、人々が生活を営んでいた。現滑走路の一部はかつて松並木の宜野湾馬場で、伝統の琉球競馬を見に遠方からも人が訪れた。米軍は沖縄戦で地元住民を収容所に閉じ込め、その間に基地建設を強行した。住民は基地の周りに追い出された。地主たちは現在も、清明祭などの際に、普天間の立ち入り許可を申請し、戦前から存在している基地内の墓を訪ねている。

 一方、ハーグ陸戦条約は戦争中の民間地奪取を禁止している。普天間は民間集落だったため、この場所への基地建設はそもそも同条約に違反する行為だ。機密指定が解除された米公文書によると、米軍は沖縄戦が始まる1年半前の1943年10月の段階で、地形図などを研究し、普天間飛行場の建設を計画していた。基地建設は戦闘の“どさくさ”ではなく、民間地だった事実を把握した上で綿密に計画された。
 また「基地ができた後に人が移り住んだ」という主張は、沖縄の歴史の“起点”に米軍上陸を置いている面でも不適切だ。