「村上春樹を読む」理想を抱き続ける 村上さんのところ・その2


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 村上春樹が読者との交流サイトを通して、ファンからの質問にメールで答えた『村上さんのところ』が7月下旬に刊行されました。その中の村上春樹の発言の中から、これまでとは少し違う特徴や、やはり変わらぬ村上春樹について、前回のコラムで紹介しました。

 これまでも指摘しましたが、今回の交流サイトでの、村上春樹の発言の特徴は、何よりもわかりやすく、丁寧に、読者に答えている点です。そこで使われる言葉によっては、少し、厳密さ、正確さが劣っても、でもともかく、できるだけわかりやすく、自分の考えを伝えていきたいという意志が貫かれているように、私には感じられました。
 その中には、村上春樹作品を理解する上で、重要な考え方についての発言もありました。例えば、村上春樹の物語が展開していく「異界」という場所についても、非常にわかりやすく述べられています。今回のコラム「村上春樹を読む」では、まずこの「異界」についての村上春樹の発言から紹介してみたいと思います。
 それは「『異界』へのアクセス」というメールの応答に記されたものです。そのメールを、村上春樹は「僕が小説を書くときに訪れる場所は、僕自身の内部に存在している場所です。それをとりあえず『異界』と呼ぶこともあります」と書き出しています。
 その「異界」と呼ばれるものは「それは現実に僕が生きているこの地表の世界とは、また別な世界です。普通の人は夢を見るときに、しばしばそこを訪れます。僕は―というか物語を語るものはと言ってもいいのでしょうが― そこを目覚めた意識のまま訪れます。そしてその世界について描写します。だからそれは外部にある『異界』ではありません。あくまで内的な『異界』です。異界という言い方が誤解を招くなら、率直に『深層意識』と言ってもいいかもしれません(ちょっとだけ違うんですが)」と続けています。
 この〈ちょっとだけ違うんですが〉「異界という言い方が誤解を招くなら、率直に『深層意識』と言ってもいいかもしれません」と述べているところが、今回の読者との応答集『村上さんのところ』の特徴だと思います。
 「異界」というと、自分の外側に存在していると思う人の場合が多いです。でも村上春樹の「異界」は「僕自身の内部に存在している場所」だと述べています。さらに、少し意味が曖昧になっても、わかりやすく言うならば「『深層意識』と言ってもいい」と記しているのです。村上春樹は心理学的なパターン概念で、自分の物語が読まれることを避けるために、「深層意識」という言い方は、これまであまり使ってこなかったと思います。
 でも、その「深層意識」という言葉を敢えて使ってでも、「異界」が外ではなく、自分の内側に在ることを読者に伝えたかったのだと思います。60歳代の半ばの年齢となって、自分の物語の姿を年下の世代の読者に、よりわかりやすく伝えていこうという気持ちが「『深層意識』と言ってもいい」という言葉に反映しているのかもしれません。
 つまり「『異界』へのアクセス」とは、自分の「心の底におりていく」ということです。その自分の心の闇の中で闘って、成長していく「物語」が、村上春樹作品の特徴です。ですから村上春樹の物語の闘いの場所は「自分の心の中」なのです。そのことを理解しておくことは、とても重要だと思います。
 1つだけ具体的な例を挙げておきますと、『ねじまき鳥クロニクル』で「綿谷ノボル」という人物と主人公の「僕」が対決して、綿谷ノボルを野球のバットで殴り倒すという有名な場面があります。それは東京のホテルの「208」号室の暗闇の中での闘いです。
 この暗闇の「208」号室の世界が「異界」です。綿谷ノボルは日本を戦争に導いたような精神の持主です。でも、その綿谷ノボルは「僕」の妻の兄なのです。いくらなんでも、自分の妻の兄をバットで、殴り倒さなくもいいだろう、というふうに読む人もいます。
 でも、この綿谷ノボルと「僕」との闘いは、「僕」の「異界」での闘い、つまり「僕」の心の中の闘いなのです。
 どんな人間も、世界を戦争に導いてしまうような側面を、心の一部に持っています。もちろん、私も、例外ではありません。
 『ねじまき鳥クロニクル』の「僕」が「綿谷ノボル」と対決して、彼をバットで殴り倒すということは、「僕」が自分の中の「日本を戦争に導いたような精神」の部分を自らの手で徹底的にたたきつぶすということなのでしょう。
 「僕」が「綿谷ノボル」と戦い、その綿谷ノボル的なるものをバットで叩きつぶすのですが、すると現実の綿谷ノボルはとつぜん、脳溢血のような症状で、意識不明となってしまいます。
 でも、よく読んでみるとわかるのですが、「綿谷ノボル」は東京で倒れたのではなくて、「長崎で大勢の人を前に演説して、そのあとで関係者と食事をしているときにとつぜん崩れ落ちるように」倒れたと、『ねじまき鳥クロニクル』には書かれています。つまり「僕」と「綿谷ノボル」との「異界」での闘いは、「僕」の心の中で行われていたことを、この「長崎」と「東京」のズレによって、村上春樹は表しているのではないかと思うのです。
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 「主人公の生き方は、受動的なのか主体的なのか」というメールの応答も興味深いです。村上春樹の作品の主人公たちは、しばしば「受動的」だと言われたりします。でもその「受動的」と言われる村上作品の主人公たちについて、彼らこそが実は「主体的」なのではないかという反論を村上春樹がしているのです。つまり安易に「受動的」と言うような人たちのほうが、現在、世界で起きている混乱について、深く受けとめていないのではないか、という村上春樹の思いが込められた文章となっています。
 「欧米の読者というか、批評家の中には僕の主人公たちが受動的であると見なす人が少なくありません。でもそれはいささか一面的な見方ではないかと僕は常々考えています」
 この回答は、そんな〈少し激しい村上春樹〉を感じさせる言葉で始まっています。
 そこで「僕は彼らが受動的であると考えたことはほとんどありません。僕の小説の主人公たちの多くは、世界の流れを『既にそこに生じたもの』として観察し、捉え、その展開の中に自分たちを有効に組み込ませようと、静かに(そしてむしろ主体的に)努めているのです」と、村上春樹は自分の物語の主人公たちの「主体的」な姿について語っています。
 「世界貿易センタービルの事件や、福島原発の災害がもたらした圧倒的なまでの状況に対して、そこに生じた現実認識の激しい落差に対して、人がそれぞれ自分の生き方や世界観を調整し、作り替えていくことを、はたして『受動的』な態度と呼んで片付けてしまってよいものでしょうか?」とも述べているのです。
 いま世界はますます流動化していますが、それに対して「僕ら一人ひとりが、そのような世界の流動に合わせて、自分を刻一刻変更させていくことを余儀なくされています。それは決して安易な作業ではありません。僕らはそのような難儀な作業をするにあたって、なんらかの新しい枠組みを必要とし、新しいロールモデルを求めています。僕が物語を通して目指しているのは、そのような枠組みやロールモデルを、僕なりに及ばずながらこしらえていくことなのです。それを『受動的』と呼ばれると、僭越かもしれませんが、少し首をひねりたくなります」と書いて、さらに次のように加えています。
 「主体性VS.制度、悟性VS.神意、あるいはロジックVS.カオスといった西欧的図式こそが、現在(それこそ)いくぶんの見直しを求められているのではないかと、現今の世界情勢を見ながら、僕なりに愚考しているのですが」
 イスラムの問題を考えるだけでも、西欧的図式ではもう解決できないことを現代社会が抱えていることは明らかです。これまでの西欧的な図式では、もう維持できないほど、世界が流動化して、混乱する中で、世界中の人びとが新しい枠組みやロールモデルを希求していて、村上春樹も「物語」を通して、その新しい枠組みやロールモデルを提出しようとしていることを述べているわけです。
 つまり以上の言葉は、これから書かれるであろう新しい長編も、混乱し流動化する現代世界に対して、新しい枠組みやロールモデルを生み出そうとして書かれるということの村上春樹の宣言でもあると思います。
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 「主人公の生き方は、受動的なのか主体的なのか」の中でも、福島第1原発事故のことに触れていますが、この原子力発電というものに対しての質問も多く、それに対する村上春樹の率直な回答も話題となりました。
 前回、「ハルキスト」は村上春樹作品の熱心な読者たちの呼び方としては、「語感がいささかチャラいので、とりあえず無視しませんか」と村上春樹自身が述べて、このサイトでは「村上主義(Murakamism)」あるいは「村上主義者(Murakamist)」と呼ぶことを、村上春樹が繰り返し宣言していたことを紹介しました。
 この原子力発電に対する、読者とのやりとりを通して、この「村上主義」「村上主義者」について、もう少しだけ考えてみたいと思います。
 まず村上春樹は「原子力発電所」ではなく、これからは「核発電所」と呼ぼうと提案しました。つまり「あれは本来は『原子力発電所』ではなく『核発電所』です。nuclear=核、atomic power=原子力です。ですからnuclear plantは当然『核発電所』と呼ばれるべきなのです」と、その提案理由をわかりやすく述べています。
 「そういう名称の微妙な言い換えからして、危険性を国民の目からなんとかそらせようという国の意図が、最初から見えているようです。『核』というのはおっかない感じがするから、『原子力』にしておけ。その方が平和利用っぽいだろう、みたいな」という言い換えが通ってきたので、ちゃんと呼んだらどうかというわけです。
 「そして過疎の(比較的貧しい)地域に電力会社が巨額の金を注ぎ込み、国家が政治力を行使し、その狭い地域だけの合意をもとに核発電所を一方的につくってしまった(本当はもっと広い範囲での住民合意が必要なはずなのに)。そしてその結果、今回の福島のような、国家の基幹を揺るがすような大災害が起こってしまったのです」
 このような村上春樹の発言は、福島第1原発事故の後で、急に出てきたものではありません。「核発電所」と呼びませんか、という提案を引き出した質問者のメールにも紹介されていますが、村上春樹はエッセー集『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』の中の「ウォークマンを悪く言うわけじゃないですが」という文章で「原子力発電所に代わる安全でクリーンな新しいエネルギー源を開発実現化すること」を提案しています。「もちろんこれは生半可な目標ではない。時間もかかるし、金もかかるだろう。しかし日本がまともな国家として時代をまっとうする道は、極端にいえば『もうこれくらいしかないんじゃないか』と、五年間近く日本を離れて暮らしているあいだに、実感としてつくづく僕は思った」と書いているのです。『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』は1997年の刊行です。その時点で、村上春樹は、そのように脱原発の思考をはっきり記しているのです。
 「五年間近く日本を離れて暮らしているあいだに」とは、1991年から1995年まで米国東海岸に村上春樹が住んだことで、この期間に村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』の全3巻を書き上げています。その『ねじまき鳥クロニクル』では、紹介したように、日本を戦争に導いたような精神の持主である綿谷ノボルが「長崎」で倒れています。そして同作で、ノモンハンの「歴史」を「僕」に伝えにくる間宮中尉は広島出身であり、原爆で妹と父を失い、ショックで母も2年後に亡くなったという人です。「広島」と「長崎」という日本が受けた2度の原爆による惨禍を意識して、書かれた作品が『ねじまき鳥クロニクル』です。
 「原子力発電所に代わる安全でクリーンな新しいエネルギー源を開発実現化すること」。それを「五年間近く日本を離れて暮らしているあいだに、実感としてつくづく僕は思った」という感慨の中に、『ねじまき鳥クロニクル』を書いたことの反映があると思います。
 ともかく「ウォークマンを悪く言うわけじゃないですが」は『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』の最後に置かれたエッセーですから、そこに、村上春樹のはっきりとしたメッセージが記されていると思いますね。
 しかも、同エッセー集が刊行された1997年の時点に、そう思ったというのではなくて、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)や『海辺のカフカ』(2002年)に出てくる発電所が、いずれも風力発電所であることからもわかるように、村上春樹の年来の考えの表明なのでしょう。デビュー作が『風の歌を聴け』(1979年)というタイトルであることとも、きっと関係した意見で、作家として登場してきた時から抱いている思いに違いないと思います。 
 福島第1原発事故から3カ月後の2011年6月、スペイン・バルセロナのカタルーニャ国際賞授賞式の受賞スピーチで、村上春樹は「私たち日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった」と述べて、大きな話題となりましたが、それもデビュー以来、抱き続ける思いを語っていたのです。その挨拶でも1945年8月、広島と長崎という2つの都市に原爆が落とされた日本という唯一の被爆国について、村上春樹は語っていました。
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 ならば村上春樹は、原子力発電所(核発電所)を即時に全停止、全廃止という意見かというと、そうでもないのです。
 それは「この矛盾とどう向き合えばいいでしょう」という質問に答えた村上春樹の発言です。質問者は36歳の見習い介護士の女性。その女性が暮らす田舎は震災前から現在まで、100%自前の水力発電でまかなっているそうです。
 「震災後原発が止まり、近隣都市への電力供給のために更なる発電量をと河川をせき止め、水を抜き取り、せっせとクリーンエネルギーを作り出しているわけなんです」ということで、釣り好きの質問者は、地元の渓流を毎年歩いて見ていると、「あきらかに発電のための取水口以下の水量が少なく、水温が高く、今まで見たことのない藻が川底の岩を覆い、川底の砂が増えるといった変化が著しい」そうです。
 そして「私は原発絶対反対、完全不必要論支持者です。が、原発が動いていた時の方が私の大事な自然が守られる。こんな矛盾にどう向き合えばいいのでしょう?」という質問です。
 それに答えて、村上春樹は次のように答えています。
 「おっしゃっていることはとてもよくわかります。ただ単純に原発(核発)を止めて、自然エネルギーだけにしろといっても、そんなに簡単に目標が達成できるものではありませんよね。何かを変えようとすれば、いろんな矛盾や問題が次々に出てきます。ヨーロッパは風力発電が盛んですが、渡り鳥があのブレードに巻き込まれて大量に死ぬということもあるようです。それが問題になっています。時間をかけて、いろんな状況をうまく「こなれさせる」ことが必要になってきます。ただ核発が潜在的に含んでいる圧倒的な(非人間的にまで圧倒的な)リスクに比べれば、そのような矛盾や問題は、人間の手で少しずつ解決していけるレベルの問題ではないかと僕は考えています。『みんなで知恵をしぼって詰めていけば、なんとか答えは出るんじゃないか』と」
 そして、こうも述べているのです。
 「僕自身は『何がなんでも核発をなくせ』とごりごりに主張しているわけではありません。もしそれが国民注視のもとに注意深く安全に運営されるなら、過渡的にある程度存在しても仕方ないとは思っているんです」
 でも、現実はまったく違う方向に動いています。だから村上春樹は「しかし実際にはまったくそうではないから、国や電力会社の言うことなんてとても信用できたものではないし、今のこのような状況下で再稼働はもってのほかだと考えているのです。どのように行動するか? 日本という国家がこれからどのような方向に舵をとっていくか、その意思決定をするのが先決ですよね。ドイツは意思決定を早々に下しました。目先の経済効率よりは、人間性の尊厳の方が国家にとって大事なことなのだと。日本にだってそのような決定はできるはずです。まず大筋を決める。そのためには、論点をひとつに絞り込んだ国民投票みたいなものが必要になってくると思います。そういう道筋がうまく開けるといいのですが」と答えています。
 原発(核発)の問題についての、村上春樹の思考を述べている回答ですので、長く、詳しい紹介となってしまいましたが、これらの村上春樹の発言から、「村上主義」「村上主義者」とは何かについて、少し考えてみたいのです。
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 まず「村上主義」「村上主義者」は、心に深く理想を抱いているということです。その理想を手放さずに、ずっと持ち続けているということだと思います。
 村上春樹が、急に反原発(反核発)的な発言をし出したという人たちの声を聞くことがあります。でも、ここに紹介したように、反原発(反核発)に対する意識はデビュー作『風の歌を聴け』以来持続していることだと思われます。今回のコラムで記したことを読むだけでも、その人たちの指摘が事実を随分とかけ離れたものであることがわかります。
 少なくとも1997年刊行の『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』の中で「原子力発電所に代わる安全でクリーンな新しいエネルギー源を開発実現化」を既に表明していましたし、2011年6月のカタルーニャ国際賞授賞式での「私たち日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった」というスピーチもあり、『村上さんのところ』(2015年)での、これからは「原子力発電所」ではなく「核発電所」と呼ぼうという提案もあるのです。
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 次に、心に深く理想を抱く「村上主義」「村上主義者」は、シニカルであってはいけないということがあると思います。
 理想に対して、現実は、つねに失望をともなって進むケースがあります。そこで、人はついシニカルな考えに陥りがちです。「日本人なんかだめだ」「日本社会には希望がない」という意見に傾きがちです。でも村上春樹の発言には、シニカルなところがありません。
 「技術的に原子力を廃絶できるシステムを作りあげることに成功すれば、日本という国家の重みが現実的に、歴史的にがらっと大きく違ってくるはずだ。『いろいろあったけど、日本はその時代やっぱりひとつ地球、人類のために役に立つ大きなことをしたんだな』ということになる。それはまた唯一の被爆国としての日本の、国家的な悲願になりうるはずだ」と『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』の中で村上春樹は記しています。
 この「唯一の被爆国としての日本の、国家的な悲願」という言葉に『ねじまき鳥クロニクル』で、広島、長崎に触れて書いた村上春樹の思いの反映があると思いますが、村上春樹は長い滞米生活を終えて、日本に帰国する時に、日本人の持つ、日本社会の持つ可能性を、自分が抱き続ける理想の中から考えているのです。ここには、日本社会や日本人に対して、シニカルな視線がないのです。
 原発(核発)再稼働の問題にしても「日本という国家がこれからどのような方向に舵をとっていくか、その意思決定をするのが先決ですよね。ドイツは意思決定を早々に下しました。目先の経済効率よりは、人間性の尊厳の方が国家にとって大事なことなのだと。日本にだってそのような決定はできるはずです」という考え方に、シニカルな面を感じることができないのです。村上春樹は自分が抱き続ける理想から、日本の再生はいかにして可能かということを考え続けているのです。
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 そして「村上主義」「村上主義者」は、心に抱く、その理想の実現のためには、自分の心と言葉を連結させて、それぞれが今できる形で力を合わせるという作業をいとわないということが必要なのだと思います。つまり、自分の心と言葉と行動をしっかり連結させるのです。現実は矛盾に満ちていますが、その現実に対しても、志を失わず、でも柔軟に対応することが必要です。
 「僕自身は『何がなんでも核発をなくせ』とごりごりに主張しているわけではありません。もしそれが国民注視のもとに注意深く安全に運営されるなら、過渡的にある程度存在しても仕方ないとは思っているんです」と村上春樹が述べているのは、そのような視点からの発言でしょう。
 そして「しかし実際にはまったくそうではないから、国や電力会社の言うことなんてとても信用できたものではないし」というのは、「国や電力会社の言うこと」が「心と言葉を連結」させた言葉ではないからでしょう。その言葉は「効率」などから生まれてくる「虚ろな言葉」だからからだと思います。
 「論点をひとつに絞り込んだ国民投票みたいなものが必要になってくると思います。そういう道筋がうまく開けるといいのですが」と村上春樹は述べていますが、ここにも社会の再生のためには、すべての人びとの心と言葉と行動をしっかり連結させることの大切さの反映を受け取ることができると思います。
 つまり「村上主義」「村上主義者」というのは、この世の再生のために理想を抱き続け、自分の心と言葉と行動をしっかり連結させ、矛盾に満ちた現実に対しても、シニカルにならず、志を失わず、でも柔軟に、粘り強く対応していく人たちのことではないかと思います。
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 今回のコラム「村上春樹を読む」は、社会的な問題に対して発言する村上春樹についての紹介が多くなってしまったかもしれません。でも村上春樹の作品についての興味深い発言も『村上さんのところ』にはたくさんあります。その中から2つ紹介して、今回のコラムを終わりにしたいと思います。
 1つは『1Q84』の続編(BOOK4)があるかどうかの質問に対して、村上春樹が次のように答えていることです。
 「『1Q84』の続編(BOOK4)は書こうかどうしようか、長いあいだずいぶん迷ったんだけど、そのためには前に書いた三冊を読み返して、いちいちメモとかをとらなくてはならず、とても複雑な話なので『それもちょっと面倒かな』と二の足を踏んでいます。僕はあまり準備をしてものを書くというのが好きではないので。可能性をいろいろと探っているところです。結論はまだ出ていません。僕の印象では『1Q84』にはあの前の話があり、あのあとの話があります。いわば長い因縁話みたいになっています。それを書いた方がいいのか、書かないままにしておいた方がいいのか……」
 これは、読者にとっては、とても気になる村上春樹の正直な発言ですね。『1Q84』を面白く読んだ読者としては、ぜひ続きを読んでみたいですが。
 もう1つは、村上春樹作品の「人称」の問題です。村上春樹は「僕」という一人称の主人公からスタートして、「僕」と「私」の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、また「僕」と三人称の「ナカタさん」「星野青年」の『海辺のカフカ』を経て、「青豆」と「天吾」の完全三人称の『1Q84』と、主人公の人称を広げてきた作家です。その村上春樹が『村上さんのところ』では、こんなことを言っています。
 「人称というのは僕にとってはかなり大事な問題で、いつもそのことを意識しています。僕の場合、一人称から三人称へという長期的な流れははっきりしているんだけど、そろそろまた一人称に戻ってみようかなということを考えています。一人称の新しい可能性を試してみるというか。もちろんどうなるかはわかりませんが」
 これも気になる発言ですね。これから書かれるであろう、新しい小説は「一人称小説」なのでしょうか。などなど『村上さんのところ』には、たくさんの率直な村上春樹の言葉が記されています。「村上主義」「村上主義者」の方々は、ぜひ読まれたらいいと思います。(共同通信編集委員・小山鉄郎)
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小山鉄郎のプロフィル
 こやま・てつろう 1949年、群馬県生まれ。共同通信社編集委員兼論説委員。村上春樹氏の文学や白川静氏の漢字学の紹介で、文芸記者として初めて日本記者クラブ賞を受賞(2013年度)。「風の歌 村上春樹の物語世界」や「村上春樹の動物誌」を全国の新聞社に配信連載。著書に『村上春樹を読みつくす』(講談社現代新書)、『空想読解 なるほど、村上春樹』(共同通信社)、『村上春樹を読む午後』(文藝春秋)、『あのとき、文学があった―「文学者追跡」完全版』(論創社)。
 白川静氏の漢字学をやさしく解説した『白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい』『白川静さんに学ぶ 漢字は怖い』(ともに共同通信社、文庫版は新潮文庫)や『白川静文字学入門 なるほど漢字物語』(共同通信社)もある。
(共同通信)

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