岩かげで40日ほど過ごす
沖縄戦の直前、県内には普通局が3、特定局が90あった。そのほとんどが全焼や全壊し、本島で被災をまぬがれたのは宜野座局1局だった。
10・10空襲以後、一層戦火は激しくなり、空襲は頻繁となった。昭和20年、臨時郵便局となった嘉数宅の庭先で行われた新年遙拝式には局長はじめ、局員が参列した。「その最中でした。空襲警報が鳴って、大さわぎになったのは」と大城さん、2月には首里山川の民家に局は移ったが、そのころには、業務はほとんど行われず、数日して那覇郵便局は解散となった。
4月20日、大城さん一族(30人ほど)は玉城村富里に避難した。その途中、無数にころがるしかばねを見た。「一日橋の近くですよ。日本兵の死体が辺り一面にあり、恐ろしい光景でした。当時は、橋がよく狙われました。南部にいる兵が攻防の激しい浦添や首里に行くには一日橋や真玉橋を通りますから。その通行路を遮断するためにも、橋が狙いだったのでしょう」
富里では、岩山の岩かげで40日間ほど過ごし、その後、喜屋武に向かった。「富里の岩かげでは、何度か日本兵2、3人がやってきて、『この穴は軍が使用するので、出て行け』と有無を言わさず、追い出されました。私たちだけではなく、ほかの家族らも追い出されたようです。真っ昼間、敵機の銃撃を受け、死んだ人もいました」
喜屋武へ行く途中は大雨。ぬかるみの道で大城さんは死体を踏んだ。
「あの感触は今でも忘れられません。『助けて』『水をくれ』と叫ぶ兵は何人もいましたが、だれも手を出しません。みんな自分が生きるだけで精いっぱいの時代ですから仕方ありませんが、何ともやりきれない気持ちになりました」
6月20日には喜屋武で捕虜にとられ、豊見城村の伊良波収容所へ。
「よくあの戦火の中で生きのびたと思います。最初は、一日でも長く生きたいと思ってましたが、喜屋武では、だれか一人でも生き抜いて、だれがどこで死んだかを確認してほしい、戦が終わった時、このようすを伝える役目の人を選ばねば、と考えてました」。一族の中で亡くなったのは、2人。「運が良かったんですね」と大城さんはつぶやく。
8月15日、南部ではまだ戦の激しかったころ、石川市では各収容所の代表128人が集まり、第1回仮沖縄諮詢委員会が開かれた。その時、代表者らから出された要望には、離ればなれになった家族の安否を確かめたい、との声があった。同月29日には、正式の諮詢委員会が発足、同時に通信部も設置、無料で、しかも安否照会の内容に限られた形で、9月4日、戦後の郵便業務が開始された。終戦からわずか20日目だった。
そのころ石川の収容所にいた大城さんは、戦前郵便局員の経験があったため、通信部の職員採用第1号となり、9月10日から、中央郵便取扱所で勤務した。
同取扱所で取り扱う郵便物は1日に300通から400通、11月になると4000通にも膨れ上がった。「手を合わせて拝むようにしてお礼を言う人もいるほど喜ばれました」と大城さん。狂喜の中での再スタートとなった。
沖縄戦では郵便施設だけでなく、多くの職員が亡くなった。糸満市摩文仁の「逓魂之塔」には、505柱が合祀(ごうし)されている。
(「戦禍を掘る」取材班)
1984年4月17日掲載
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