水虫に悩まされた壕生活
深夜、豊見城の野戦病院を脱出した一行は摩文仁に向かった。看護隊も綿のように疲れ果てていたが、患者に付き添いながら砲弾の中を進み、波平、座波、高嶺、真壁と抜けて目的地・糸洲の壕に到着した。わずか一晩で強行した移動だった。
この移動は、多くの重傷兵を途中で置き去りにしてきたということで、看護隊にとっては忘れられない体験となった。
上原さんは「看護婦さーん、頭の出血どうして止めたらいいですか、と声を張り上げていた日本兵のことを今でも思い出す」という。
「声に振り向くとつらくなるから前を向いたまま。三角きんでしっかり巻いてちょうだい、としか言ってやれませんでした。後ろ髪を引かれる思いというのはこういうのを言うんでしょうね」
しかし、当時は悲しむ間もなく次の生活を考えなければならなかった。糸洲の壕は天然の洞穴で、「轟壕」と呼ばれていた。
愛媛大学探検隊が作成した地図からも分かるように、この壕の奥は伊敷地区まで続いており、かなりの深さだ。当初は南側のウッカーガマ、ウンジャーガマなどに人々が集まっていた。
小波津さんによると、壕内はかなり広かったが、上から鍾乳石がいっぱい垂れ下がり、下には深さが太ももまでも水がたまっていた。
「移動してきて最初の仕事は、近くの集落に出かけて空き家から戸板を運んでくることでした。水ぎわの泥の上にその板を敷き、かろうじて負傷兵の看護が出来るようにしました。この壕にやってきてからも負傷兵はひっきりなし。湿気の多い壕生活で体の抵抗力も弱まり、下痢が止まらない者や発熱する者が相次いだものです」
看護隊はまた、水虫に悩まされた。四六時中、地下足袋をはいたままなのが原因で足の裏の皮がすっかりなくなってしまった。
「真っ赤にはれてしまってかゆいというより痛くてしようがなかったです」と、小波津さん、上原さん、名城さんの3人は口をそろえる。
一枕の戸板に10人もの患者がいたという。
数人の県立二高女生が「壕に入れて下さい」とやってきたことがあった。負傷している人もいたので小波津さんらが班長に頼んだら、「食糧事情のこともある。他の部隊のことはかまってやれない」との返事だった。
名城さんは、壕にいた同郷の初年兵のことが忘れられない。「その人はコザの小学校時代の1期先輩で浜比嘉さんという人。これから第一線に切り込みに行くと言うのでおにぎりをこしらえて見送ったのです。この次に会う時は越来小学校のウスキの木の下で会おうねと約束したのに。それっきりになってしまって…」と声を詰まらせる。
名城さんら3人の話を聞きながら、豊見城城址公園から糸満の糸洲地区へ、当時の彼女たちの足取りをたどった。糸洲の「轟壕」に案内され、3人からさらに詳しい話を聞いた。
やがて南部一帯にも戦火が迫り、6月中旬、この壕もついに米軍によって馬のり攻撃が始まった。壕の上部のポッカリ空いていた個所から毒ガスや爆雷を次々と投入され、壕内は騒然となった。
(「戦禍を掘る」取材班)
1984年7月2日掲載
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