召集などで職員も激減
昭和19年10月10日の朝、当時17歳の喜瀬宏さん(57)=那覇市久茂地=は、潟原の自宅から沖縄地方気象台への道を急いでいた。早朝から始まった米軍機の攻撃は、時間の経過とともに激しくなり、また目標も広げていった。
繰り上げ卒業でその年の1月から気象台に勤務していた喜瀬さんだったが、空襲の街を急ぎながらも、「50年の観測業務を止めるな」の先輩らの言葉が頭の中にあった。ガジャンビラを登り切ったところにある沖縄地方気象台。そこに夜勤者と交代するためそこに午前8時までに着かなければならなかった。
◇ ◇
気象観測上、重要な位置にある本県の気象業務がスタートしたのが命じ23年。那覇市松山に沖縄県立那覇測候所が設立された。その後、火災で焼失、仮事務所での業務を続けたあと那覇市小禄のガジャンビラ高台に昭和2年、中央気象台付属沖縄測候所と改称され再出発した。
喜瀬さんが勤務したころには沖縄地方気象台になっていたが、当時職員は98人。本台には無線、観測予報、統計、庶務・会計の各課があり、ほかに那覇航空気象観測所があった。
◇ ◇
眼下に見える那覇港には船団が停泊していた。米軍機は4、5機ずつ編隊を組み襲って行く。東側から低空でやって来て西へ抜けて行く。機銃掃射を交えながら爆弾が次々と投下される。ものすごい爆発音が響き、水柱も高々と上がった。そして炎上する艦船。黒煙があちらこちらから上がって、那覇の街を視界からさえぎってしまった。
ガジャンビラの丘陵には松林が連なっていたが、そこには陸軍の高射砲陣地があった。10・10空襲の始まったころには激しく応戦していたが、それも時間とともに衰えていく。艦船もなすすべもないまま攻撃にさらされるばかりだった。
気象台の建物にも時折機銃が当たったが、そんな中でも平常通り観測は続けられた。正時の10分前から観測を開始、正時から10分後には暗号化して福岡管区気象台に1時間ごとに報告した。
「こわいとか何とかいう気持ちはなく、ただ無我夢中だった」と喜瀬さん。気がつくと交代時間は過ぎている。だが、宵番の勤務者は出て来ない。「そのまま勤務を続けたが、夜の11時ごろには、こわくなって壕へ避難した」
気象台の南側200メートルほどのところにある壕は、サイパン、テニアンが陥落したころ掘り始めた壕だった。全職員が交代で掘ったものだ。一つはディーゼルエンジン、送受信機を収納するための壕で、沖縄戦では沖縄地方気象台の“本拠”となった。それより細長い壕は後に軍に徴発されてしまった。
翌朝、仮橋になってしまった南明治橋を渡って喜瀬さんは驚いた。那覇港の黒煙で覆われていた那覇の街が、すっかり変わっている。東町から久茂地と歩を進めるにつれ、目をおおいたくなるような被害だ。街は焼失、その中に電柱の残がいが並んでいる光景が異様だった。
10・10空襲からしばらくたったある日、喜瀬さんは台長から呼ばれた。「当時の模様を細かく聞かれたが、最後に『怖かったか』と聴かれ、『はい』と答えると、『それではいい』と返されたのが今でも印象に残っている」。10・10空襲では喜瀬さんに“戦果”があった。冬の賞与袋に200円の大金が入っていた。40円の給料で家族6人が生活できる時代だっただけに重たい賞与袋だった。
沖縄地方気象台にとっても10・10空襲は沖縄戦の“前奏”にすぎない。召集などで職員の数も少なくなり、また出勤率も悪くなった。それでも1時間ごとに沖縄の気象は福岡に報告された。「トン トトトツー トツートト」―沖縄地方気象台の呼び出し暗号発「ヘクカ」は、翌20年5月中旬まで、はるか福岡に発信され続けた。
(「戦禍を掘る」取材班)
1984年7月6日掲載
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