コラム:話のタネ


「沖縄の光と影」③


小渕恵三と沖縄サミット


 「沖縄コンフィデンシャル」を書く直接のきっかけとなったのは、元総理の小渕恵三の人物論を書くために沖縄を訪ねたことだった。小渕は早稲田大学に在学中、頻繁に沖縄を訪問し、そのとき培った人脈が彼の沖縄コネクションを盤石なものにした。


 ちなみに、小渕にすり鉢の底が抜けそうな露骨なゴマすりで近づき、小渕内閣の官房副長官を射とめた鈴木宗男は、その後、防衛政務次官、沖縄開発庁長官とトントン拍子に出世し、沖縄の政財界に隠然たる力をもつようになった。


 私はこの沖縄取材で、小渕の沖縄人脈の強さを思い知らされた。その筆頭が、前沖縄県知事・稲嶺恵一の父親で、琉球石油(現・りゅうせき)を創業した稲嶺一郎だった。小渕は沖縄に来る度、早稲田の大先輩の稲嶺の家に宿泊し、小遣いまでもらった。


 小渕が國場組相談役の國場幸一郎や、玉泉洞を経営する南都ワールド代表の大城宗憲と知遇を得たのもこの時代だった。國場とは早稲田人脈の縁で、大城とは南方同胞援護会主宰者の末次一郎の紹介で知りあった。このとき國場幸一郎から聞いた話は忘れられない。


 「あれは自民党が大敗をした98年7月の参院選のときでした。その応援で沖縄に来た小渕さんが、『もしいまの知事(大田昌秀)をかえることができれば、沖縄にびっくりするようなものをプレゼントしよう』と言ったんです。そのプレゼントが、沖縄サミットだったと知ったのはだいぶあとになってからのことでした、」


 沖縄の政治は中央がコントロールしている。そして、その沖縄の政治を実際に動かしているのは、國場組を代表とする”沖縄四天王”がつくった企業グループである。そのことも、恥ずかしながらこのとき初めて知った。


 学生時代から強い思い入れがある沖縄でサミットを開くのが、首相になった小渕の最大の夢だった。だが2000年4月、小渕は突然病に倒れ、その1カ月後に他界した。このため、長年の夢だったサミット議長は後継総理の森喜朗がつとめることになった。


 沖縄中を警備陣が埋め尽くした沖縄サミットは、ほとんど戒厳令下のものものしさだった。帰りの飛行機の乗客は、私以外すべて任務を終えた警官だった。柔道部の部室のようなにおいが充満した飛行機に乗ったのは初めてだったし、たぶんこれから先もないだろう。


 思えば、小渕が病に倒れたことが、現代政治史最大の曲がり角だった。あのとき”総理の病室”で、野中広務、青木幹雄、亀井静香など”五人組”による密室の談合で、森の後継総理が決まった。


 ”サメの脳味噌”と揶揄された森は、たちまち国民のブーイングにさらされて退陣し、かわった小泉純一郎はアメリカ流新自由主義に大きく舵を切って、今日の格差社会への道を踏み固めた。そして小泉の改革路線を継承した安倍晋三は、政権を途中で投げ出す無責任ぶりを世間にさらして国民を呆れさせた。


 凡愚の宰相といわれながら周囲の配慮だけは忘れず、政権に殉死した小渕を懐かしく思い出すのは、私だけだろうか。



 


 佐野 眞一(さの・しんいち ノンフィクション作家。1947年東京生まれ。97年に『旅する巨人』(文藝春秋)で第28回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『巨怪伝』(文春文庫)、『カリスマ』(新潮文庫)、『阿片王』(新潮社)など多数。10月に『枢密院議長の日記』(講談社現代新書)、『この国の品質』(ビジネス社)を刊行予定)(写真撮影・薈田純一氏)