<未来に伝える沖縄戦>失われた青春時代 中山きくさん(83) 下


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「何もしなければ平和はやってこない」と話す中山きくさん=11月30日、那覇市の若狭公民館

 《八重瀬岳にあった日本軍の山第一野戦病院に配属された白梅学徒隊の中山きくさんら46人は、戦況悪化による病院解散後、戦場に放り出されました。同病院が移った高嶺村真栄里(現糸満市)の壕には16人が逃れ、米軍の猛攻撃で10人が亡くなりました》

 真栄里の壕では友達が火炎放射で焼かれて亡くなりました。1人は大やけどで助けられたんですが、故郷の名護町為又(現名護市)に戻った後、マラリアで死んでしまいました。

 私は同じ佐敷村出身だった嶺井千代ちゃんと一緒に逃げ回りました。南部にはたくさんの避難民が押し寄せていました。大度という所で恐ろしい死体を見ました。皮膚が真っ黒になってぱんぱんで今にも破裂しそう。摩文仁まで行くと死んだ人で足の踏み場もないくらい。夜歩くと踏んづけてしまいます。自分たちもいつかこうなるかもしれないという気持ちがありました。

 具志頭村港川まで来て、どうにでもなれとじっとしていました。カタカタカタカタと戦車の音がすると1分間ぐらい機関銃をやぶに向かって撃ち、何人かが死ぬ。それの繰り返しです。そのうち北部の方へ「敵陣突破する」という声が聞こえました。

※続きは12月11日(日)付紙面をご覧ください。