社会

<ライフ イン NY>3 琉舞の普及に情熱 順子・フィッシャーさん

ニューヨークで琉舞の普及に努める順子・フィッシャーさん

 ニューヨークの地で沖縄伝統芸能の普及とアピールに情熱を注ぎ、意欲的に活動しているのが読谷村瀬名波出身の順子・フィッシャーさん(旧姓、長浜)だ。日本舞踊の名取でありながら、渡米後に琉球舞踊の奥深さを再認識したという。
 踊りをやっていた母親の影響で5歳から琉球舞踊を習い始めた順子さん。小学生の時には、一人でバスに乗り、嘉手納にある研究所に通い、けいこに励んだ。「小学校のころは、研究所の発表会や親せきの祝いの宴で母と共演した」と話す。

 高校卒業後、進学のため上京した順子さんは、日本舞踊に興味を持ち、勉学の傍ら日本舞踊のけいこに専念し始めた。琉球舞踊で培われた踊りの技量がここでも開花、順子さんは4年で五條流の名取となった。そのお披露目は東京国立劇場で行われ、堂々と優雅な舞いを披露した。
 大学卒業後、そのまま東京で会社勤めをするが、16年前、心機一転、ニューヨークに語学留学する。当時、雑誌社の編集をしていたラリーさんとの運命的な出会いをし、結婚した。
 その後、順子さんは、国際色豊かなニューヨークの街で持ち前のファッションセンスと器用さを生かし、西陣織などの織物でオリジナルバッグを創作。ファッションビジネスを手掛けてきた。
 そして2年前、舞踊を再開した。順子さんは、「ニューヨークで日舞と琉舞の公演を行う中、日舞と琉舞の難しさに直面した。いろいろ考え、琉舞を生かすことを決意し、宮城流琉舞研究所の門をたたいた」と話す。東海岸から西海岸まで飛行機で5時間かけて、カリフォルニア州の宮城能松師範の指導を仰いだり、テネシー州には、定期的に飛行機で通い、けいこを続けている。
 18歳で故郷を離れ、25年近く遠ざかっていた琉舞の再開に、順子さんは「沖縄のすべてが遠い存在になっていたが、琉舞が自分のルーツを再認識させた。幅の広い沖縄芸能の神髄に再度触れたくなった」と話す。ダンスが好きな順子さんは、東京時代には日舞とともにモダン、ジャズ、タップダンスとあらゆるレッスンを受けた。
 「器用貧乏」と笑う順子さんは、長い道のりを経て、宮城流の踊りを教え始めた。琉球芸能の伝授をライフワークにする決意をした順子さんは、「近い将来、アーティストたちのあこがれのステージであるカーネギ大ホールとセントラルパークで大きな芸能の祭典を行い宮城流の踊りを紹介したい」と抱負を語る。今、順子さんは一人のエンターテイナーとして、そして宮城流能松会ニューヨーク支部代表としてそのプロモーションのため奮闘している。
 ビジネスコンサルタントの夫ラリーさんは、順子さんの良き理解者として陰で支えている。
 (鈴木多美子通信員)