784人もの子どもたちが海で命を失わなければならなかったのはなぜか。誰が責任を負うべきなのか。そのことを厳しく検証し、二度と悲劇が繰り返されることがないよう固く誓う日としたい。
疎開学童ら1788人を乗せ、那覇から九州に向かっていた対馬丸が1944年8月22日、米潜水艦の魚雷によって撃沈されて80年を迎えた。犠牲者は氏名が判明しているだけで1484人を数える。半数以上が子どもたちだ。
私たちが対馬丸の悲劇を見つめ、語り継ぐ時、子どもたちは「国策の犠牲」になったことを問わなければならない。
「絶対国防圏」の要衝をなすサイパン島の日本軍が壊滅した44年7月7日、政府は南西諸島の女性やお年寄り、子どもたち約10万人の九州、台湾への疎開を閣議決定した。同月、県内政部長が国民学校長らに宛てた文書で学童集団疎開の推進を指示している。
疎開の狙いは日本軍の足手まといになる住民を戦場から立ち退かせ、食糧を確保することにあった。戦争遂行を理由とした疎開が痛ましい犠牲をもたらしたのである。
国や軍の指示によって引き揚げや疎開をする県民を乗せ、撃沈された船舶は対馬丸を含め26隻とされる。そのうち対馬丸以前に撃沈された船は17隻で、県民犠牲者は1600人を超える。
制海権を失っていたことを県民に伏せたまま疎開は実行に移された。戦争を遂行するための国策を県民に強いた責任は重大だ。しかも、国は同じ過ちを犯しかねない。
政府は国民保護法に基づき、宮古、八重山に住む住民の県外避難計画を策定している。「武力攻撃予測事態」や弾道ミサイルの着弾があった際、5市町村住民や観光客約12万人を九州7県や山口県に避難させる計画だ。その実現性には疑問符が付いている。
何よりも政府が住民避難を要するような事態を招こうとしている。「南西シフト」を名目とした自衛隊の増強である。「台湾有事は日本有事」という政府の認識は県民を危機に追いやる。日本は80年前と同じ道をたどっていないか。対馬丸の経験を踏まえ、危うい政府の外交・防衛姿勢に異議を申し立てる必要がある。
1961年に発刊された記録集「悪石島―疎開船学童死のドキュメント」(大城立裕、嘉陽安男、船越義彰著)が「対馬丸」と書名を改め82年に再刊された際、後書きで次のように説いている。
「その犠牲を見つめることは、親の責任を見すえることであり、その親を導いた国の責任を問うことになる。歴史を見とおすこころでいえば、おとなの責任を永遠に問うことである。私たちは、それに耐えられるだろうか」
私たちは、危険な学童疎開を強行した国の責任を問い続けなければならない。同時に、子どもたちの命と沖縄の平和を守る大人の責任を果たさなければならない。