<社説>4.28「屈辱の日」 不屈の日として刻みたい


社会
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 過重な在沖米軍基地負担などに抗議する「4・28県民屈辱の日を忘れない県民集会」が名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前で開かれた。

 1952年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約第3条によって沖縄は日本から切り離されたことから「屈辱の日」と呼ばれた。
 あれから66年。県民集会で主催者を代表し高良鉄美実行委員長は「私たちの思いが無視された」と指摘した。新基地建設についても「基地を造らせないという思いも無視されている。まさに屈辱が70年続いている」と国の姿勢に抗議した。
 「屈辱の日」は、県民が自己決定権を求めて立ち上がった「不屈の日」でもある。戦後沖縄の政治をけん引した3人のエピソードがある。
 講和条約の発効を前にした4月1日、琉球大学で開かれた琉球政府発足式典で立法院議員が起立して宣誓した。瀬長亀次郎氏だけは起立せず宣誓文への押印も拒否した。
 瀬長氏の未発表の原稿によると、最初に示された宣誓文には「米民政府並に琉球住民の信頼にこたえるべく」とあった。有権者に選ばれたにもかかわらず、米国に宣誓する必要はないと考えた。そして「日本国民に対する民族的侮辱であり、日本復帰と平和に対する挑戦状だ」として拒否した。瀬長氏は米統治下で日本復帰運動の先頭に立った。
 講和条約が発効する3カ月前の52年1月、当時の沖縄群島政府文教部長の屋良朝苗氏(後の主席、県知事)は全島校長会を開催した。沖縄が日本から切り離される前に、沖縄の進むべき方向を示そうと考えたからだ。校長会は全会一致で「復帰要求決議」を採択した。屋良氏は47~50年の知念高校校長時代から生徒に日本復帰を訴えていた。
 以来、屋良氏は全県民的な支持を背景に、粘り強く日米両政府と向き合い、自治権の獲得と施政権返還を求めた。屋良氏は「沖縄問題の解決の可能性は、全国民の沖縄に対する真の理解と好意の度合いがバロメーターになる」と考えていた。県民の直接行動と全国民の理解、この二つがかみ合ったときに事態は前進すると確信した。
 対日講和会議が始まる7カ月前の51年2月1日付「沖縄新聞」は、沖縄の新聞として初めて社説で日本復帰論を掲げた。西銘順治氏らが創刊した「沖縄ヘラルド」が「沖縄新聞」に改題するのを機に主張した。西銘氏はこの社説の執筆に立ち会っている。
 この年の4月から西銘氏は仲間と共に日本復帰を求める署名運動に参加した。西銘氏は社大党の結党メンバーで、後に保守勢力のリーダーとして那覇市長、衆院議員、県知事に就任した。
 「屈辱の日」を体験した3人に共通するのは、抑圧に決して屈することなく、前途に希望を持ち続けたことではないか。