<社説>慰霊の日 沖縄戦の教訓継承したい


社会
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 沖縄戦の組織的な戦闘が終結してから74年となった。きょう23日、糸満市摩文仁で沖縄全戦没者追悼式が行われ、県内各地の慰霊碑でも祈りがささげられる。

 親族の名が刻まれた平和の礎をなぞる高齢者の姿は年々少なくなっているように見える。本紙連載の「未来に伝える沖縄戦」で語る戦争体験者も最近はほとんどが当時子どもだった。体験者が減る中、戦争の悲惨さと、二度と戦争をしてはならないという思いを、確実に次世代へとつないでいかなければならない。
 今年の慰霊の日は、安倍晋三首相が悲願とする憲法改正が争点となる参院選が翌月にも控える。自民党は憲法9条に自衛隊を明記して「早期の憲法改正を目指す」とし、主要争点とする構えだ。安倍内閣が閣議決定で集団的自衛権の行使を認めたことは違憲と指摘されている。改憲によって正当化したいのだろうか。
 軍隊を強くし、個人の尊厳より国益を優先する。現政権の姿勢に戦前の日本のありようが重なる。その帰結は沖縄戦であった。
 沖縄戦は日本兵よりも県民の死者がはるかに多かった。おびただしい数の住民が地上戦に巻き込まれたからだ。沖縄県史によると、沖縄戦での一般県民の死者は9万4千人、これに県出身の軍人・軍属約2万8千人が加わる。他都道府県出身兵は6万6千人弱だ。
 沖縄の防衛に当たる第32軍と大本営は沖縄戦を本土決戦準備のための時間稼ぎに使った。県出身の軍人・軍属には、兵力を補うために防衛隊などとして集められた17―45歳の男性住民が含まれる。沖縄戦ではこうして住民を根こそぎ動員した。
 さらにスパイ容疑や壕追い立てなど、日本軍によって多数の県民が殺害されたのも沖縄戦の特徴だ。
 住民は日本軍による組織的な戦闘が終わった後も、戦場となった島を逃げ回り、戦火の犠牲になった。久米島の人々に投降を呼び掛け、日本兵にスパイと見なされて惨殺された仲村渠明勇さんの事件は敗戦後の8月18日に起きた。
 戦後、沖縄は27年も米施政権下に置かれ、日本国憲法も適用されず、基本的人権すら保障されなかった。沖縄が日本に復帰した後も米軍基地は残り、東西冷戦終結という歴史的変革の後も、また米朝会談などにみられる東アジアの平和構築の動きの中でも在沖米軍基地の機能は強化され続けている。
 74年前、沖縄に上陸した米軍は以来、居座ったままだ。米軍による事件事故は住民の安全を脅かし、広大な基地は県民の経済活動の阻害要因となっている。沖縄の戦後はまだ終わっていない。
 「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓を、無念の死を遂げた沖縄戦の犠牲者への誓いとして、私たちはしっかり継承していかねばならない。