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「村上春樹を読む」(66)「ブーメランのように旋回する物語」 『騎士団長殺し』を読む・その1

 村上春樹さんの新刊小説『騎士団長殺し』

 全3巻だった『1Q84』のBOOK3(2010年)の発売から7年ぶりの村上春樹の大作『騎士団長殺し』が刊行されました。第1部、第2部の2巻、計1千ページを超える作品です。みなさん、読まれましたか? もちろん、私はすぐ読みました。とても面白く読みました。

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 1年半ほど前、このコラムで、読者とのインターネットを通したメールのやりとり『村上さんのところ』(2015年)の中での村上春樹の発言を紹介したのですが、そこで、作品の「人称」の問題について、村上春樹は次のようなことを述べていました。

 「人称というのは僕にとってはかなり大事な問題で、いつもそのことを意識しています。僕の場合、一人称から三人称へという長期的な流れははっきりしているんだけど、そろそろまた一人称に戻ってみようかなということを考えています。一人称の新しい可能性を試してみるというか。もちろんどうなるかはわかりませんが」

 その言葉を紹介して、「これから書かれるであろう、新しい小説は『一人称小説』なのでしょうか」と記しました。以来、村上春樹の新作長編小説が書かれるとしたら、一人称の小説なのではないかと…私の知り合いの村上春樹ファンたちに話してきました。『騎士団長殺し』は、その予想通りというか、推測通りの「一人称」小説でした。

 「人称」に関しては、初期の一人称に戻ったという評も多いようですが、読んだ感覚は随分異なります。<とても自由な一人称>だなと思いました。

 村上春樹の長編作品だけみても、「僕」という一人称の主人公からスタートして、「僕」と「私」の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)、また「僕」と三人称の「ナカタさん・星野青年」の『海辺のカフカ』(2002年)を経て、「青豆」と「天吾」の完全三人称の『1Q84』(2009年- 2010年)と、主人公の人称を広げてきた作家です。そこには「完全三人称」へ向けて、「人称」の問題をずっと広げていく村上春樹の姿がありました。

 でも『1Q84』で完全三人称の長い物語を書いてしまったので、その後は三人称の物語にするのか、一人称の物語にするのかは、自分の選択的なことだったのでしょう。ともかく、<とても自由な一人称>による小説です。

 たいへん楽しく読みましたので、これから何回か、連続して、この小説の面白さ、現代性について、「村上春樹を読む」の中で書いて行きたいと思います。

 作品に『騎士団長殺し』という絵の中から身長60センチぐらいの「騎士団長」というものが現れて、「私」にいろいろなことを話します。この騎士団長は二人称単数が存在しないように「諸君」という言葉で話します。「私」にも「今日の昼前に、諸君に電話がひとつかかってくる」「そして誰かが何かに誘うだろう。そしてたとえどのような事情があろうと、諸君はそれを断ってはならない」と言うのです。

 誰から電話がかかってくるのか、読者にはわかりません。長い小説ですが、登場人物が非常に多いというわけではないのです。電話をかけてくる可能性のある人は限られています。読者には「誰かな?」という期待が高まりますが、かかってくるまではっきり予想がつかないのです。そして午前10時に電話のベルがなります。かけてきた人物の名を聞いてみれば、なるほどと思う人物、その人の誘いを断ってはいけない話なのです。

 小説を読む楽しさは、作品に最後までタッチして読めるかどうかです。「予告・予言」に対して、そこに対応する人物は数人に限定されているのに、その人が現れると、小さく<エッ>という驚きがあり、<そう来るかぁ…>と思いながら、あっという間にその章を読んでしまうのです。こういう感覚が小説を読む醍醐味です。それが最後のページまで、作品に貫かれています。最後までタッチして読んでいける作品です。私がたいへん面白く読んだというのは、まずそのような意味です。

 でも物語の内容の面白さを論じるとなると、ある難しさにぶつかることに気づきました。それを具体的に紹介してみましょう。

 主人公の「私」は36歳の肖像画家です。6年の結婚生活の後に、いきなり妻から別れ話を告げられて、車で旅に出ます。新潟、秋田、北海道、東北を移動した後、美大時代の友人「雨田政彦」の紹介で、神奈川県小田原市郊外の山中にある、政彦の父で著名な日本画家「雨田具彦」のアトリエに暮らすようになります。その「私」は、妻と別れて車で移動中、新潟県村上市の川に携帯電話を捨てています。

 この「私」の前に「免色渉」という変わった名前の人物が自分の肖像画を描いてほしいと言って、現れます。その「免色渉」は「いろんな情報を効率よく手に入れるのが、私の仕事の一部になっています」と語ります。村上春樹文学の特徴は「効率」を追求する社会と闘ってきたことですので、「免色渉」は、いかがわしい人物の登場かなと最初は思います。

 昔、経営していたIT関係の会社を大手の通信会社に売却して今は引退。蓄えが多いので、1日数時間、インターネットを使って株式と為替を道楽のように動かしているようです。お金があるので基本的に何も働いていない人と考えていいと思います。

 つまり携帯電話を捨てた「私」とIT関係の会社で儲けた金で働かず、道楽のようにしてインターネットで株取引をしている「免色渉」とは対極的な人物、正反対の人物のように思えるのです。

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 でもそんなふうに、物語が進んでいくわけではありません。

 例えば、『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』で、「私」のところへ「免色渉」が自分の肖像画を描いてほしいとやってきた時、こんなことを言います。

 「実を言いますと、私には好奇心があったんです。自分の目の前で、自分の姿かたちが絵に描かれていくというのはいったいどんな気持ちがするものなのか。私はそれを実際に体験してみたかった。ただ絵に描かれるだけではなく、それをひとつの交流として体験してみたかった」と言います。

 それに対して、「交流として?」と「私」は質問しています。

 「免色渉」は「私とあなたとのあいだの交流としてです」と加えます。

 しばらく「私」は黙っています。「交流という表現が具体的に何を意味しているのか、急にはわからなかったから」です。

 すると「免色渉」が「お互いの一部を交換し合うということです」「私は私の何かを差し出し、あなたはあなたの何かを差し出す。もちろんそれが大事なものである必要はありません。簡単なもの、しるしみたいなものでいいんです」と加えます。

 ようやく「子供がきれいな貝殻を交換するみたいに?」と「私」が応えると、「そのとおりです」と「免色渉」が言うのです。

 この場面、「交流」ということに関しては、「免色渉」のほうが自覚的です。

 そして、この「交流」という言葉、この後、かなり重要な意味を持つような考えとして、繰り返し出てきます。

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 この新作の題名は、「私」が家の屋根裏から、つまりかつて「雨田具彦」が使っていた家の屋根裏から『騎士団長殺し』と名づけられた絵を発見したことから付けられています。『騎士団長殺し』とはモーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』の冒頭にある場面です。放蕩者ドン・ジョバンニは美しい娘、ドンナ・アンナを誘惑し、それを見とがめた父親の騎士団長と果たし合いとなって、刺し殺してしまいます。その有名な場面を「雨田具彦」が日本の飛鳥時代の情景に「翻案」して描いた日本画の作品でした。

 「雨田具彦」がウィーン留学中の1938年にオーストリアはヒットラーによってドイツに組み込まれ、国家が消滅してしまいます。「雨田具彦」にはオーストリア人の恋人がいて、彼女は大学生を中心とする地下抵抗組織に関係していて、ナチの高官を暗殺する計画を立てていましたが、みな捕まって殺されてしまいます。「雨田具彦」も巻き込まれて厳しい取り調べを受けたのですが、「雨田具彦」だけが政治的配慮によって日本へ強制送還されて、生きのびました。

 そして、発見した、その「絵」と「私」はひとり対話をしながら、心の中で亡くなった妹コミに話しかける場面があります。「私」の妹は3歳下で、名前は「小径(こみち)」でした。その「コミ」は心臓に疾患があり、12歳で亡くなってしまったのですが、でも「私」はコミととても親しかったのです。

 「もしコミがここにいたら、私はこれまでのことの成り行きをすべて彼女に語り、彼女はその話に時おり短い質問をはさみながらも、静かに耳を傾けてくれることだろう」「そして私が語り終えたとき、彼女はしばらく間を置いてから、いくつか有益なアドバイスを私に与えてくれることだろう。私たちは小さな頃から、そのような交流を続けてきたのだ」。そのように、「免色渉」が言った「交流」という言葉が、今度は「私」の言葉として、ここに記されているのです。

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 さらに、『騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編』には、「私」が「秋川まりえ」の肖像画を描いている場面で、こんな会話が記されています。「秋川まりえ」の母親は「免色渉」の恋人だったことがあり、まりえは「免色渉」の娘である可能性が高い少女です。

 「私とその十三歳の少女とのあいだには、交流のようなものがまぎれもなく存在していた。私はふと妹の手のことを思い出した。一緒に富士の風穴に入ったとき、冷ややかな暗闇の中で妹は私の手をしっかり握り続けていたが、小さく温かく、しかし驚くほど力強い指だった。私たちのあいだには確かに生命の交流があった。私たちは何かを与えると同時に、何かを受け取っていた。それは限られた時間に、限られた場所でしか起こらない交流だった」

 ここでは、まりえについても「交流」が語られ、さらにコミについて「何かを与えると同時に、何かを受け取っていた」という「交流」が語られています。それは最初に「免色渉」が語った考えでした。

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 この肖像画を描いてもらうために「秋川まりえ」が「私」の家に来る場面では、彼女の父親である可能性がある「免色渉」も「私」の家に来ています。

 「私もしばらくここでモデルをつとめましたが、絵のモデルになるというのはなんだか奇妙なものです。ときどき魂をかすめ取られているような気がしたものです」と言って、「免色渉」が笑うと、「そうではない」と、まりえが囁くように言うのです。

 「それはどういうこと?」と免色が尋ねると、まりえは「かすめ取られてはいない。わたしはなにかを差し出し、わたしはなにかを受け取る」と言います。

 それを受けて「免色渉」は感心して言います。「君の言うとおりだ。言い方が単純に過ぎたみたい。もちろんそこに交流がなくちゃいけない。芸術行為というのは決して一方的なものではないから」と語るのです。

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 以上、紹介してきたことからも、携帯電話を捨てて生きる「私」と、IT関係で儲けた金で、ほとんど働かず、道楽のようにしてインターネットで株取引をしている「免色渉」とが、対極的な人物、正反対の人物として、単純に描かれているわけではないことが分かっていただけるかと思います。

 「免色渉」が発した「交流」という言葉、「お互いの一部を交換し合うということです」「私は私の何かを差し出し、あなたはあなたの何かを差し出す」という考えは、「私」にわたり、妹コミのことにつながり、また「秋川まりえ」にわたり、再び「免色渉」のもとにかえってくるように書かれています。

 『騎士団長殺し』の「第1部 顕れるイデア編」の単行本の帯には「旋回する物語 そして変装する言葉」とありますが、まさに「交流」「私は私の何かを差し出し、あなたはあなたの何かを差し出す」という考えは「旋回」しながら書かれているのです。

 村上春樹の得意とする言葉で言えば「ブーメラン」のようにして書かれている物語が『騎士団長殺し』なのです。

 『騎士団長殺し』はたいへん面白い。でもいったんその面白さを論じ語ろうとすると、ある難しさにぶつかります。それは紹介したような「交流」「私は私の何かを差し出し、あなたはあなたの何かを差し出す」ということだけでなく、そのほとんどのことが、ブーメランのように旋回しながら書かれているからだと思います。この作品について、あることについて、述べようとすると、別なところに反転して書かれているのです。『騎士団長殺し』の「第2部 遷ろうメタファー編」の帯には「渇望する幻想 そして反転する眺望」と記されていますが、まさに「反転」する物語。ブーメランのように旋回し、反転する物語なのです。

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 村上春樹はAとBという2つの話を並行して語っていくことが、好きな作家です。長編作品で例を挙げれば、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『ノルウェイの森』(1987年)がそうでしょう。

 そして『海辺のカフカ』を読んだ時の驚きを忘れることができません。AとBの話の世界が2階建ての物語になっていたのです。『海辺のカフカ』も基本的に「僕」の話と「ナカタさん・星野青年」の話が交互に進んでいく、AとBの世界が並行して進んでいく物語です。でもAとBの世界が「AとB/aとb」とでも言ったらいいのか、2階建てのAとBの物語となっていたのです。

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終り」の世界と「ハードボイルド・ワンダーランド」の世界は、互いに響き合う形で、読者の心を揺さぶるという作品でした。「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」の登場人物たちが出会う話ではありません。『ノルウェイの森』も、「僕」は「直子」の世界と「緑」の世界を往還する人物ですが、基本的に「直子」と「緑」が出会うことはありませんでした。

 でも『海辺のカフカ』では「僕」がいる四国高松の図書館に「ナカタさん・星野青年」が入っていって、そこにいる人たちと会い、話をしているのです。AとBの世界が「AとB/aとb」というふうに2階建てで描かれ、Bの人たちが斜めにaの世界に侵入して話せるようになっているのです。

 そして『1Q84』は基本的に「青豆」と「天吾」というAとBの話で進んでいく物語(BOOK3で「牛河」という視点が加わりますが)です。そのAの世界の「青豆」が、Bの世界の「天吾」を見つけ出して、出会い、最後に一つの莢におさまるという形になっています。村上春樹は「人称」の問題だけではなく、物語の構造も広げ続けてきたのです。

 でも新しい大長編『騎士団長殺し』は、そういうAとBという形をしていません。ブーメランのように旋回し、反転しながら、進んでいく物語です。『海辺のカフカ』を読んだ時と同じような新鮮な驚きのようなものを感じました。

 21世紀を生きる村上春樹が現代作家として、21世紀の読者に向けて書いた、新しい形の物語だと思います。

 紹介したように、この物語には「雨田具彦」が遭遇したナチスドイツによるオーストリア併合の話も出てきます。さらに南京大虐殺と呼ばれることを含んだ日本軍の南京戦と、捕虜に対する血なまぐさい虐殺のことも出てきます。

 それら、大きな事件と、小田原郊外の山中で、静かに肖像画を描く「私」がどのように関係しているのか。そのほかにもいろいろな問題があります。それらを描いた、このブーメランのように旋回し、反転する『騎士団長殺し』について、何回かこのコラムで考えてみたいと思います。(共同通信編集委員 小山鉄郎)

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(共同通信)