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甲子園初、完全試合の金字塔 野球熱は「命ある限り」 指導の道35年

練習を見守る松本稔監督=高崎市の中央中等教育学校で2021年1月12日、川地隆史撮影

 高校野球の甲子園の歴史の中で、今も燦然(さんぜん)と輝く金字塔を打ち立てた人物が群馬にいる。1978年の第50回選抜高校野球大会(センバツ)に前橋高の主戦として出場した松本稔さん(60)。1回戦の比叡山高(滋賀)戦で、1人の走者も出さない前人未到の「完全試合」を成し遂げた。1924(大正13)年に始まったセンバツで、実に1019試合目の快挙だった。94年には2回目の完全試合があったが、夏の甲子園ではいまだ達成されていない。

 身長168センチ、直球の最速は135キロほどだったが、スリークオーターから繰り出されるカーブを織り交ぜ、凡打の山を築いた。比叡山高の日下部明男監督(当時)も試合後、「打者の心理をうまく読んだ配球の妙は感嘆の一語につきる」と称賛したほどだった。

 「パーフェクト」を意識したのは七回から。ストライク先行の冷静な投球を続けた。最終回も二飛、二ゴロから最後の打者は投ゴロに抑えた。計78球を投げ、全27アウトのうち17は内野ゴロだった。

 20年に還暦を迎えた松本さんは当時の心境を淡々と振り返る。「試合に勝利したことの方がうれしかったですね。記録のことはその次です」。なぜそう思ったのか。当時の部員は1、2年生で20人足らず。前年秋の関東大会で準優勝し、センバツ出場校に選ばれたものの、「初戦での大敗は避けたいという不安が大きかったんです」。

 一方、史上初の大記録に日本中が熱狂した。「どこにいっても記者ばかり。気が休まらなかったですね」。当時の人気番組「ザ・ベストテン」で司会の久米宏さんが「今日は甲子園で大変な記録が生まれましたね」と語る場面もあった。

 突如としてスターダムへのし上がったことが、17歳の少年の肩に重くのしかかった。「ほとんど地に足が着いていない状態」となり、2回戦・福井商(福井)戦では0―14と、あっけなく大敗した。

 しかし、松本さんはその後、甲子園の舞台に戻ることになる。筑波大に進学し、同大大学院を修了後、群馬に戻って指導者の道へ。87年夏に高崎市の中央高(現中央中等教育学校)を、02年春には母校の前橋高を甲子園に導いた。

 指導するうえでの信条は「自走力」。スパルタ指導が目立った高校野球を変えようと、「自分たちで考えて、自分たちで頑張る野球でどこまで勝てるのか」を常に模索し続けた。

 とりわけ指導の成果を感じたのは、02年のセンバツで前橋高の主戦を務めた松下繁徳投手(当時2年)だった。

 高校から投手を始め、パワー不足で伸び悩んだ時期があり、「下から投げていいですか」と直談判しにきたことがあった。アンダースローを試すと、打者が打ちづらい「沈む」球になったという。「自分を生かす道を見つけてくれましたね」

 08年からは古巣の中央中等教育学校で指揮を執る。かつて甲子園に出場した同校も今は慢性的な部員不足で、昨年の秋季大会には出場すらできなかった。

 しかし、野球熱が冷めることはない。1月中旬に同校を訪ねると、室内練習場で選手に寄り添い指導する松本さんの姿があった。

 同校の高橋莉紀主将(2年)は「選手の近くで、いろいろな経験を交えながら教えてくれる」と、松本さんに信頼を寄せる。

 「野球はやっぱり難しい」。高校球児を指導して35年になるが、正解は見つからない。21年度からは再任用で教員を続けるつもりだが、赴任先はまだ決まっていないという。

 しかし、どんな立場になっても、野球の指導は続けるつもりだ。「監督でなくても命ある限り、続けますよ」【川地隆史】

 ◇松本稔(まつもと・みのる)さん

 1960年、伊勢崎市生まれ。前橋高でエースを務め、78年春のセンバツに出場。1回戦で完全試合を達成する。筑波大でも硬式野球部に入り、2年から外野手に転向。同大大学院修了後の85年、体育科教員として群馬に帰った。


(毎日新聞)









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