社会

ノモンハン事件 従軍体験記見つかる

野村照一さん(右下の写真)の手記を手にする長女の中山征子さん(右)と夫の裕さん=京都府長岡京市で、国本ようこ撮影

 第二次世界大戦直前の旧日本軍の大失敗の一つに挙げられる「ノモンハン事件」に動員され、京都府宇治市で昨年5月に101歳で亡くなった野村照一さんの遺品から今月、過酷な従軍体験などを回想した手記が見つかった。遺品を整理した長女の中山征子(いくこ)さん(74)=同府長岡京市=は「父から戦争の話は聞いていたが、手記のことは知らなかった。華々しく戦ったというのではない、一兵卒から見た戦争が記されている」と話す。【国本ようこ】

 「運命の狭間で 命を拾った話」と題された手記は400字詰め原稿用紙37枚。幼少期から戦中・戦後まで6話で構成し、1989年10月に完成と記されている。

 野村さんは1916(大正5)年、福井県内の農家で10人兄弟姉妹の末っ子として生まれた。尋常高等小学校高等科を28(昭和3)年に卒業後、京都市でハイヤーの運転手をしていた兄の下で働き、自動車の整備を覚えた。

 37(昭和12)年に志願して陸軍に入隊。金沢の輜重兵(しちょうへい)第九連隊に所属した後、39年6月に旧満州(現中国東北部)へ渡った。旧ソ連軍・モンゴル軍と日本軍が国境を巡り交戦していたノモンハン事件の戦線に回され、武器や弾薬を自動車で輸送する役割を担った。

 手記では「ソ連軍は数日のうちに補給を完了したのに、日本軍には補給力がなかったようだ」などと指摘。日本軍の歩兵が「たこ壺(つぼ)」と呼ばれた穴で敵の戦車を待ち、地雷を竹の棒の先につけて戦車の走行用ベルトに差し込んでいたことなどを記している。

 野村さんは250キロあったという基地間を自動車で移動したが、歩兵は夏の暑い草原を1週間かけて行軍。「落伍(らくご)兵が手を上げ、乗せてくれと拝む者もあって止まると、ワーッと押しかけて自動車のまわりに鈴なりになった」と描写し、末端の兵士の苦難をうかがわせる。

 また、不用意に戦場近くまで砲車をけん引させた何百頭もの馬が敵機に襲われ、草原一面に死骸が広がっていた光景を詳述。「馬のいない砲兵なんて鉄砲を持たない歩兵より始末が悪い。移動の手段を持たない重たい大砲なんて何の役にも立たない」「当時の軍上層部は近代戦に対する認識に全く欠けていた」と憤りを示している。

 その後の44年、野村さんは現在の中国湖南省で敵機の爆撃に合ったが、何かの破片が服の左襟を貫通。「もし喉を貫通していれば、即死か苦悶(くもん)の末に一命を落としていた」と振り返った。

 ◇ノモンハン事件

 1939年5〜9月、旧満州(現中国東北部)に展開する日本の関東軍と、モンゴルの後ろ盾になっていた旧ソ連軍が満蒙国境で戦った紛争。当初は関東軍が優勢だったが、戦車など物量で勝るソ連軍の実力を関東軍が見誤り、旧式装備のまま壊滅的打撃を受けた。日本側の死傷者は約2万人、死傷率は75%とされ、旧日本軍の失敗の象徴の一つと評される。ただし、ソ連崩壊後に出た史料でソ連側の損害も膨大だったと指摘されている。


(毎日新聞)