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エッセーで新境地 普久原恒勇さん(音楽プロデューサー・作曲家) 〈ゆくい語り・沖縄へのメッセージ〉15


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音楽活動を振り返る普久原恒勇氏=11月23日、沖縄市の普久原恒勇音楽事務所

 「普久原メロディー」と言えば「芭蕉布」など、誰でも知っている名曲の数々が思い浮かぶ。そんな沖縄音楽界の大御所中の大御所、普久原恒勇さん(86)が、2016年8月から本紙の日曜日読書欄に連載したエッセー「ぼくの目ざわり耳ざわり」が11月25日の第120回で終了した。

 80代半ばになって書き始めたというエッセーは、芸能、風俗、ウチナーグチや琉歌などのうんちくを傾け、軽妙に語り、論じた。ウチナーグチの面白さ、豊かさを再認識した読者も多かったのではないか。本紙にはファンから多くの投書が寄せられ、出版を望む声も多かった。

 倒れて脚が不自由になり16年間、那覇にも行っていないという。それでも作曲の仕事を続け、さらにエッセーという新たな世界を広げた。「エッセイスト普久原恒勇」の語り口も味わい深い。

私は職人、頼まれたら書かんといかん

―120回の連載を終えての感想は。

 「数え86歳から始め、書きためていたんです。50回くらいで終わるつもりだったんですが、調子に乗ってよく120回も続きましたね。自分でも驚いています。連載なんて初めてだから。しかも本になるなんて」

 「年を取るといろんなことが気になるじゃない。老人の証拠だなと思いましてね。老人が書くと自慢話か愚痴か、ですよね。そうならないように注意しました。テーマはどんどん出てくる。どんどんあらぬ所に行くよね」

―連載に対する周囲の反応はどうでしたか。

 「まず、意味分からんと。小難しいとね。老人の文章ですから。難しい漢字もつい使うんです。劣等生の特徴なんですよ。でも、できるだけ優しい言葉で書くよう努力しましたよ。漢字には意識的にルビを振った。難しい漢字は読む気にならないという方々、本を読む人以外の人に読んでいただきたかった」

―音楽家としての裏話は少なかった。音楽のことはあまり書きたくないと書かれていました。

 「音楽家の話はたくさんあるけど、あんまり書きたくない。音楽仲間が集まって音楽の話はあまりしません。仕事としてやっている音楽から逃げたいというか、逃げてリラックスしたいんです」

―これまでインタビューなどと共通のユーモアと少しの毒気がありました。

 「しゃべりたいことを文字にしただけですから。毒気があるかは分からないけど、ちょっとふざけていると言う人はいるかも。でも本人は大真面目です」

―子どもの頃の話や病気をした話は今まであまり公にしてこなかったのでは。

 「私にとってはとても大事なことです。まあ、ネタ切れかな。でもみんながびっくりするし、へえって言うから、じゃあ書いていいなと」

―ウチナーグチのうんちくがすごい。

 「私はほぼウチナーグチで育ちました。ウチナーグチオンリーです。皇民化教育は台湾、琉球(沖縄)、朝鮮でありましたが、沖縄だけが今も日本だ。なぜだろうという疑問がある。20歳から30歳まで大阪にいたけど、朝鮮の人は朝鮮語で堂々と闊歩(かっぽ)している。僕たちは沖縄人とばれたらいかんとウチナーグチを使わず、使ったら叱られた。なんでそんな努力をするのか理解できなかった。父親たちは、琉球人お断りの時代だったから。ウチナーグチはだんだん使われなくなっているが、仕方がないと思っている」

「芭蕉布」が転機に 民謡界から反発も

―作曲を始めたきっかけは。

 「音楽の勉強をして、弦楽器をやっていた。ギターと三線、それからバイオリンもやった。しかし、性に合わんと、カメラマンになろうと沖縄に帰ってきた。沖縄の人間の写真を撮りに帰ってきたつもりが、親父は音楽の人。長男が帰ってきたということで民謡の人たちがどっと集まって来て抜けられなくなっちゃった」

LP盤「沖縄の心をうたう若者たち」(ビクター音楽産業KK)の収録で、ギターを演奏する普久原恒勇さん=1975年

 「作曲はやる気は全然ない。親父(おやじ)の曲を1、2曲編曲したが、音楽をやるっていう気は全然なかった。当時は、古い民謡じゃなくて新しい民謡が売れた時代。新しい曲を待ち望んだ歌手たちから、作曲してみろということになった」

―1961年に最初の曲「月眺み」、65年に「芭蕉布」、66年に「ゆうなの花」を作りました。

 「『芭蕉布』が転機だったね。がらっと変えてみたからね。民謡とは別の物ですから。民謡界からは反発食らいましたが」

―500を超える曲を書いてこられました。どんなときに曲ができるんですか。

 「私はこれを書けと言われたら書く職人。芸術家じゃないからね。頼まれたら書かんといかん、断るのは失礼。スランプはなかったかな。書いたものは全て録音できました。皆さんのおかげです」

沖縄音楽乱用するな 音階熟知して使って

「芭蕉布」や「ゆうなの花」など多くのヒット曲を作り上げ、長年の音楽活動を振り返る普久原恒勇氏=11月23日、沖縄市の普久原恒勇音楽事務所

―最近の沖縄の民謡界について。

 「苦言を呈することになりますからあまり言いませんけどね。世代の違いあるでしょ。理解できないところもある。でも本当にやりたいことができる時代。僕らができないことをする。若いお客さんに喜んでもらえたらそれでいいと思うし。歌は世につれ、と言うから。われわれは化石みたいなもんですから、それでいいと言いたい」

―歌、音楽には国境があると持論を語ってきました。

 「音楽に国境なし、という言葉があるが、私はそうじゃない。今の音楽を聞いたら世界中どこの国のものか区別がつかない。人種が交ざり込んでどこ人というのがなくなるように、音楽もそういうことになってきたのかなと。ただ、沖縄の音楽を乱用してほしくない。琉球音階を熟知してから使っていただきたい。それが、国境あれ、ということ」

―これからは音楽だけでなくエッセイスト、批評家としても活躍していただきたい。

 「そういう気持ちは持っているけど、反発食らうでしょうね。また書こうとは考えていませんよ。そそのかす人がいたらすぐ乗るけど」

聞き手 文化部長・米倉外昭

ふくはら・つねお

 1932年大阪市西淀川で生まれ、民謡界の大御所で太平マルフクレコード創業者の伯父普久原朝喜の養子になる。6歳から戦争を挟んで49年まで沖縄で幼少年時代を過ごす。49年に大阪に戻り、朝喜の下で修業し、西洋音楽を学ぶ。59年から沖縄で琉球古典音楽や琉球民謡のプロデュースに携わる。61年から作曲を始め、65年「芭蕉布」、66年「ゆうなの花」など「普久原メロディー」と呼ばれる新しい楽曲を生み出した。作曲数は500を優に超える。第1回宮良長包音楽賞(2003年)など受賞多数。

取材を終えて 際立つ「職人」の自負

文化部長・米倉外昭

 音楽には疎い上に恐れ多く、お会いすることも姿を見ることもなかった。しかし、連載を途中から担当することになり、何度かお話しする幸運をいただいた。

 「音楽は人を表す」と言うにはあまりにも多彩で偉大な人。失礼ながら「文は人を表す」という表現にはぴったりはまった。うんちくを並べながら軽妙。まぶされたブラックユーモア。わざと卑下したような言い方をしながら、揺るぎない信念が際立つ。

 印象的だったのは「芸術家ではなく職人」という言葉。メロディーは天から下りてきたり、ひらめいたりしない。注文を受けてひねり出すものという。それは間違いなく才能だが「職人」の自負があるからこその業績なのだろう。

 人生で初めての単著となるエッセー集を来年琉球新報社から出版する。「数え86歳からのエッセイスト人生」をできる人はまれだ。

(琉球新報 2018年12月3日掲載)