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【寄稿】エッセー・池宮城けい サイパン戦とカンパチ 癒えることなかった傷


【寄稿】エッセー・池宮城けい サイパン戦とカンパチ 癒えることなかった傷  池宮城 けい
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 多くの県出身移民が「集団自決」に追い込まれるなど、この世の「地獄」ともいわれる「サイパンの戦い」から奇跡的に生還した児童文学作家の池宮城けいさんが、エッセーを寄稿した。

 「サイパン島戦こそ、あらゆる戦争中でもっともものすごく残忍なものであった」と米国のニュース週刊誌『タイム』の特派員として、サイパン、タラワ、テニアン、ペリリュー、硫黄島、沖縄で決死的従軍をして報道したロバート・シャーロッド氏はその著『サイパン』(中野五郎訳・光文社)で語っている。そのサイパン島の激戦の中、私たち家族は半年近くも爆撃の中を逃げ回り、島の果てまで追い詰められ、崖から無数の死体の浮く海に飛び込んだ。

 サイパン戦の終結は一九四四年の七月七日とされる。しかし私たち家族はその後半年近くも逃げ回った。終戦を知らせる声や空からのビラも見たが信じなかった。デマだと思った。捕虜になると酷い目に遭わされるという言葉を信じた。

 追い詰められ、母の胸に抱かれて、バンザイ岬から血の海に飛び込んでよく助かったと、運命の不思議に思いを巡らせていると、従兄の話を思い出した。

「お父ぅに石で叩かれて出来たカンパチさー」

 従兄は半ば苦笑いしながら、髪の薄くなった頭に残っている大きなカンパチ(傷痕)を見せた。

 火葬中の従姉の弟だ。火葬が終わるのを待っている間の、休憩室での話だった。

「えっ、お父さんに? 何で?」

 従兄の家族と私たち家族は、サイパンでの戦争で同じ体験をしている。

「お父ぅとお母ぁは、艦砲にやられて、もう動けなくなってさ」

 私の叔母である彼の母親には、十三歳の長女を頭に、七人の子供がいた。空からの空爆、海からの艦砲射撃、地上の戦車からの射撃の中を逃げ惑う内に、両親は足に大けがを負った。避難したガマの中で、死が間近だと悟った父親は「死ぬときは家族一緒に」と考えた。

 しかし、手榴弾がなかった。

 父親は、子供たちを一列に寝かせた。順番に、石で頭を叩いて殺そうとした。しかし、子供たちは誰一人死には至らなかった。大きなカンパチだけが残った。

「やっぱり親なんだね。石を打ち付ける手に力が入らなかったんだと思う」

 従兄はしみじみ言った。

 ガマへの攻撃が激しくなったので両親は、長女である従姉に、四人の弟、妹たちを託した。赤ん坊と三歳の弟は託さなかった。十三歳の彼女には荷が重すぎると考えたのだろう。

 従姉は、幼い弟妹の手を引いて、何度も何度も振り返りながら、ガマを出た。

 両親と、弟、妹を見たのはそれが最後だった。

 いつだったか、今、火葬に付されている従姉は、「ガマを出るときのお父ぅとお母ぁの顔は、何十年経っても忘れることが出来ない。思い出すたびに、今でも涙が止まらない」と話していた。

 両親を失い、孤児になった従姉たちと、奇跡的に生き残った私たち家族は、捕虜収容所で再会した。そして、一九四六年三月、一緒に故郷沖縄に引き上げてきた。

 従姉たちは成長し「サイパンでの慰霊祭」に一緒に行こうと何度も両親を誘ってくれた。しかし、父も母も、最後まで行くことはなかった。

 両親にとってサイパンは、自分の二人の息子、姉夫婦、甥や姪、従兄たち、親友を失った島。死体を踏み越えながら逃げ惑った地獄の日々の傷は、癒えることはなかった。

 そんな中を生きてきた母は、私たち姉妹に優しかった。

「あんたたちが生きていてくれるだけで、幸せだよ」母の目はいつもそう語っていた。

 葬儀係の案内で、私たちは席を立った。

「ねーねーの体には艦砲の破片が残っていて、MRIの検査が出来なかったってよ。今からでも取り除いてあげないと」

 立ち上がりながら従兄はそう言った。

 終戦から今年は八十年。故郷から遠く離れたサイパンの野や山や海に散った人たちの魂は安らかに眠っているだろうか。


 池宮城 けい(いけみやぎ・けい) 本名・池宮繁子 1943年サイパン生まれ。児童文学作家。日本児童文学者協会評議員。第4回青い海児童文学賞受賞。第15回琉球新報短編小説賞佳作。第31回琉球新報児童文学賞創作昔ばなし受賞。