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三つの「祖国」を放浪 ハワイから沖縄に豚を送った県系2世、比嘉トーマス太郎の生涯に迫る 著者・下嶋哲朗さんインタビュ―


三つの「祖国」を放浪 ハワイから沖縄に豚を送った県系2世、比嘉トーマス太郎の生涯に迫る 著者・下嶋哲朗さんインタビュ― 比嘉トーマス太郎(1975年撮影)
この記事を書いた人 Avatar photo 当銘 千絵

 沖縄戦に米軍の通訳兵として出向き、壕に隠れる多くの住民を救ったほか、沖縄を戦禍から立ち直らせるためにハワイから550頭の豚を運んだことで知られるハワイ生まれの県系2世、比嘉トーマス太郎。その知られざる生涯を描いたノンフィクション連載「新・太郎物語」(2018~19年、琉球新報紙面)を基にした「比嘉トーマス太郎―沖縄の宝になった男」を出版した下嶋哲朗さんに、執筆に至る経緯や太郎の人間的な魅力などについて聞いた。(聞き手・当銘千絵)


―比嘉太郎の生涯に迫るきっかけは。

 「終戦直後、食糧難にあえいでいた沖縄を救おうと、ハワイの県系人が中心となり豚550頭を沖縄に届けたことを取材する中で、その発起人だった太郎の存在を知った。太郎が自費制作した自伝本『ある二世の轍(わだち)』の経歴欄に『祖国救援行動を起こす』と書かれていることに、私は大きな衝撃を受けた。太郎の祖国はアメリカではないのか? 読み進めるうちに、彼の祖国という意識は三つの国を放浪し変貌していく、その過程(轍)が浮上してくる。私の中で、太郎にとっての祖国というものを解き明かすことがテーマとなった」

 「ハワイでの取材の中で太郎に関する資料が膨大に残されていることが分かった。その多くは現在、県立公文書館に収められている。それらを解き明かしていくと『自分を裏切らない』という太郎の人生哲学に突き当たった。自分を裏切らない人間なんているのか? その疑いを立証するためにハワイだけでも30回通い、取材を重ねた。今は亡き太郎との無言の戦いとなったが、その取材の顛末(てんまつ)が琉球新報で連載した『新・太郎物語』だった。結局、太郎は9歳の時に自分に立てた『人につくす人になります、世のためになる人になります!』という誓いを実証してしまった」

 「太郎は自分を語らない、誇らない謙虚な人柄だった。それゆえ多くの功績を残したにもかかわらず、存在が埋もれてきた。世のため人のために尽くし切った類いまれな太郎の気高い人生に、感銘しないではいられない。利己主義が支配するこの時代だからこそ、太郎の存在を書き記すことに意義があると感じた」

原動力

―太郎の原動力はどこにあったと考えるか。

 「太郎は3歳で沖縄に置き捨てられ、祖母にかわいがられて、楽天的な気質と負けず嫌いの性格が伸ばされた。その祖母が亡くなり、葬式で魂込(マブイグミ)を体験した。あるおばあに背中をどやされた瞬間、太郎は何かを吸い込んだ。おばあは『あんたマブイ落としたから入れてあげたよ』と。太郎は祖母が沖縄の自然神となって魂に入り込んだことを悟った。太郎は自然神と共に生きていくようになってから、何かに迷ったり困ったりする時は泉水口という場所へ行き、自分の中の沖縄の自然神に相談し決断することを必ずやったそうだ」

「比嘉トーマス太郎―沖縄の宝になった男」

 「また、人間とは困難から逃げ出したくなる生き物で、太郎もそうだった。しかし、そういう時は必ず自然神、祖母が現れ『本当にそれはおまえがやりたいことか』と問いかけてくる。結局踏みとどまって、しかも行動を起こす。そうやって偉大な仕事を次々と成し遂げていく。彼を突き動かした原動力は魂込された沖縄の祖母、自然神だった。つまり決断は自分がする、沖縄の自然神は意志力だったということだ」

 「ヤマト人は時代錯誤だと鼻先で笑うに違いないが、私は西表島に行った時、一緒にいた元琉球新報副社長の三木健さんに『あんたマブイを落としたね』と魂込をされた。私自身が経験をしたからこそ、太郎の原動力の存在、自然神を疑いもなく信じられる。沖縄の人であれば、この感覚的な現象は自然に納得するに違いないと思う」

―太郎にとっての祖国とは何だったのか。

 「太郎は自伝本の中で『沖縄救援運動』に携わったことを書きつづっているが、その最後の最後に沖縄を「祖国」と言い換えている。日系移民2世の太郎は自身のアイデンティティーについて長年悩んでいた。たとえば日本留学の船が横浜に着き、降り立った時には思わず『あこがれの、懐かしき我が国へは遂に来た。母のふところへでも帰った様な気である』と叫び、日本人としての誇りを持っていたことがうかがえる。だがその後、さまざまな出来事や境遇に遭い、自身の原点は沖縄であり、ウチナーンチュであることを強く意識していくようになる。魂込の経験や魂を統制していく自然神を出発点として、長く続いた精神的放浪が、沖縄戦などの経験も踏まえて自己のアイデンティティー確立に結実した」

沖縄への愛

―大田昌秀氏や大城立裕氏が、ハワイ在住の太郎にさまざまな資料収集を依頼していたと書かれている。

 「どのような経緯で交流を深めたのかは分からないが、大田氏は少なくとも1975年には太郎に手紙を出している。太郎は74年に『移民は生きる』という本を出しているので、その存在は研究者らに知られていた。そして太郎の活躍ぶりは県内外の知識人の耳目にも達していたのだろう」

 「太郎は晩年、持病の悪化により行動が制限されるようになるが、沖縄の知識人らのために残された生命と労力を惜しまず使い果たした。この事実は残された学者らの手紙などが語っている。彼らに尽くすこと、それはつまり沖縄の未来に尽くすことだと太郎は考えていた」

 「太郎は全てを沖縄のためにささげた、万国津梁の精神の人だった。子どもが5人いるが『沖縄のためとなると家に金はないのに借金してでもカンパした』とは子どもの証言。子どもたちは貧乏だったからこそ、太郎が大切にしていた沖縄の心や分け合う精神を身につけていったのだ」

メッセージは生きている

―太郎の生涯を通して学んだことは。

 「私利私欲を持たず、信念を貫く姿勢を大いに尊敬している。また太郎は、苦境にありながらも妻俊子と共に5人の子どもたちが心身共に明るく健やかに育つよう、温かく家族を包んでいた。とてもじゃないが私にはできない」

比嘉トーマス太郎の資料調査をする(左から)下嶋哲朗さん、太郎の長男アルビンさん、次男のノーレンさん=カリフォルニア州にあるアルビンさん宅(提供)

―本を通して読者に伝えたいことは。

 「太郎は自主制作の映画の中で、普段はもろいが、いざとなると底力を発揮するウチナーンチュの姿を、太平洋へと流れて固まるマグマに見いだし表現した。沖縄はあまりにも長い間、政治的、経済的に厳しい状況を強いられている。しかし抵抗力はすごい! 強い! 太郎のマグマのメッセージは今も生きている」

 「私は石垣市川平での生活を通して、さまざまな人が御嶽を中心に一つにまとまり、大きな力を発揮する姿を見てきた。だが、沖縄は戦争で徹底的に御嶽が破壊され、戦後は米軍基地や自衛隊基地がとめどなく造られていった。これは沖縄を超えて、人間と社会の崩壊に他ならない。今、若者の“ヤマト化”現象が言われているようだが、それは自然神信仰の場、御嶽の喪失が一つの原因かもしれない」

 「しかし、山国信州人の私には見える。頂に立つ太郎が握り拳を青い空に突き上げて『ウチナーンチュの底力!』と励ます姿が。今こそ沖縄をとことん愛し、沖縄のために尽くし切った太郎の全容を、ぜひ知ってもらいたい」

 「比嘉トーマス太郎―沖縄の宝になった男」の刊行記念トークイベントが10日午後3時から、那覇市のジュンク堂書店那覇支店地下1階イベント会場で開かれる。入場無料。

下嶋哲朗 しもじま・てつろう

 1941年長野県生まれ。ノンフィクション作家・画家。83年から読谷村のチビチリガマを地元住民らと調査し、沖縄戦時に壕(ごう)内で「集団自決」があったことを明らかにした。琉球新報で94~95年に「豚、太平洋を渡る」、2018~19年に「新・太郎物語」を連載した。