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大龍柱は「正面向き」 識者ら「最古の写真」など150点の資料を検証 那覇でシンポ 歴史的経緯 沖縄


大龍柱は「正面向き」 識者ら「最古の写真」など150点の資料を検証 那覇でシンポ 歴史的経緯 沖縄 龍柱の向きについて議論が集中したシンポジウム「首里城と沖縄神社」=14日、那覇市の那覇市職員厚生会厚生会館
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 首里城正殿の大龍柱の向きについて、「正面向き」とする書籍が相次いで発刊された。神奈川大学非文字資料研究業書4「首里城と沖縄神社―資料に見る近代の変遷」(近現代資料刊行会)と狩俣恵一沖縄国際大学名誉教授と田場裕規沖縄国際大学教授の編著「火難の首里城―大龍柱と琉球伝統文化の継承―」(インパクト出版会)の2冊。出版を契機に14日、シンポジウム「首里城と沖縄神社」が那覇市の那覇市職員厚生会厚生会館で開かれた。

 シンポジウムは、神奈川大学非文字資料研究センター研究員の後田多敦氏、同研究協力者の伊良波賢弥氏、同客員研究員の加藤里織氏と前田孝和氏、田場沖縄国際大学教授、伊佐眞一首里城再興研究会の計6氏が登壇し報告した。

 発刊された「首里城と沖縄神社」は現存する首里城正殿の最古の写真として知られるフランス海軍所属のルヴェルトガが撮影した写真から、首里城の平成復元で参考にされた「御普請絵図帳」の尚家資料など計150点を5章にわけて紹介している。加藤氏は「首里城正殿の写真は可能な限り収集し、古いものから新しいものへ撮影された年順に掲載した。撮影時期が明確でないものは可能な限り時期を絞り込んだ」と語った。後田多氏は「資料がつまみ食いされている状況があるため、基礎文献にしたかった」と報告した。

火難の首里城
首里城と沖縄神社 資料に見る近代の変遷

 前田氏は沖縄神社創立について報告。1921年に着任した那覇地裁検事正・島倉龍次氏が、22年に神社創立を申請し県内の著名人も協力した。23年に内務省から許可を得た。一方、首里城は老朽化と資金難から23年に首里市会が取り壊しを決議したとされる。24年に東京で、鎌倉芳太郎が取り壊しの決議を知り、東京帝国大学の伊東忠太博士に相談した。伊藤博士は内務省神社局長を訪ね中止を懇請し、取り壊しは中止となった。

 「首里城内に新設される沖縄神社の拝殿として、首里城は保存されることになった。拝殿になったため、大龍柱は取り除く可能性もあったが、狛犬にかわるものとして、向き合う型になった。本来は正面向きだと思う」と述べた。

 田場氏は歴史学者の故西里喜行氏が「相対向き」に疑問を持っていたとして、「王国時代の行政システムは政治行政上の問題は必ず諮問→審議→答申→最終決断というプロセスを踏むことになっており、どの時点でも記録が残されているはずだが、大龍柱については、その記録が見つからない。それは大龍柱の向きは王国末期まで一貫して『正面向き』だったから、と考えている」という文書を紹介した。

 沖縄神社の祭神は、「舜天王、尚円王、尚敬王、尚泰王、源為朝公の5柱で、御嶽(うたき)としての首里城への信仰を切ろうとしたのではないか」と語った。

 伊佐氏は、首里城の昭和の改修(1928―33年)が完工した後、歴史家の比嘉春潮が伊藤博士に「大龍柱は正面向きと思ったが相対向きに改変されたことを写真で知った」と述べた。伊藤博士は「相対向きは誤りだ。修復を監督した役人に話そう」と述べたというエピソードを紹介。「伊藤博士らは正面向きであると認識していたが、相対向きになったのは、現場の単なるミスではなく、日本政府の意志ではないか」と指摘した。

 後田多氏は「首里城復元で参考にされている『御普請絵図帳』は寸法は書いてあるが、実際の大龍柱の姿を描いているかは疑問だ。正面向きだと寸法など描きにくいから便宜上、横向きに絵かれただけだと思う」とし、結論として「正面向き」ではないかと締めくくった。


暫定結論は「相対向き」 技術検討委 平成の復元踏襲

 首里城復元は「首里城復元に向けた技術検討委員会(高良倉吉委員長)と沖縄総合事務局が進めており、報告はホームページで公表している。

 高良委員長は「総括的な視点から」と題して報告し大龍柱の向きについて言及している。1992年11月に竣工し一般公開された首里城正殿は「1712年に再建され1925年に国宝指定された正殿の復元を原則とする」との方針のもとに作業が進められたとし、検討結果を踏まえた上で、令和復元においても、大龍柱の向きは平成復元を踏襲することとした、と相対向きとしている。

 最後に、暫定的な結論として(1)フランス海軍古写真と「寸法記」「御普請絵図帳」はほぼ一致しているが、正殿の内部や外部の仕様、つまり、細部にわたる総体としての正殿を甦らせるための根拠資料としたのは後者であり、大龍柱の向きについてもそれに依拠することとした。フランス海軍古写真が示すのは正殿の外観である。

 (2)ただし、「御普請絵図帳」(1846年)からフランス海軍古写真(1877年)に至るまでの約30年間において、大龍柱の向き等に変更が加えられたと考えられるので、その経緯や理由を示す説得的な資料および認識が提示されれるならば、上記の結論は再検討される。今後の学術的な論議を期待するが故に、今回の決定は暫定的な結論であることを確認しておきたい。

 また、「御普請絵図帳」について、王府絵師たちが同時代に描いた業務上の絵図資料などで一定のレベルの図法技術を持っていたことが確認された。正面向きの大龍柱を描くのが困難だったために、便宜的に向き合う姿態として描いたという推測は成り立たない。と結論づけている。