攻撃逃れ 那覇から金武へ 収容所で瀕死の人々目撃 親川トミさん<未来に伝える沖縄戦>


攻撃逃れ 那覇から金武へ 収容所で瀕死の人々目撃 親川トミさん<未来に伝える沖縄戦> 沖縄戦の体験を語る親川トミさん=7月18日、那覇市首里石嶺町(喜瀬守昭撮影)
この記事を書いた人 Avatar photo 狩俣 悠喜

 

 那覇市の親川トミさん(84)=旧姓・瑞慶山=は1940年当時の那覇市前島町で生まれ育ち、4歳から5歳にかけ、10・10空襲や地上戦を体験しました。親川さんは、育ての親である瑞慶山マカトさんにおんぶされ、前島町から金武村の金武観音寺にある鍾乳洞に避難しました。首里高校3年の赤嶺瑞起さん(18)、久手堅世奈さん(17)が体験を聞きました。


 〈親川さんは1940年1月7日、8人きょうだいの二女として生まれました。生まれた時から、産みの親だった久高マカトさんのいとこ、瑞慶山マカトさんに育てられました。44年の10・10空襲前に、前島町の自宅に日本兵が訪れました〉

 日本兵が馬に乗り、日本刀と銃を持って家に来ました。日本刀の先でタンスを指して「開けろ」と言うので、一つずつ中を見せました。カンプーに挿す、ジーファーは母が大切にしていたもので、金の輪っかが付いた日の丸のバッジと、これらを持って行かれました。私を抱きしめていた育ての母がガタガタ震えているのを感じ、私も怖かったです。

 〈10・10空襲が始まると、親戚が自宅を訪れ避難を呼び掛けました。親川さんは育ての母におぶられて避難し、泊高橋周辺が燃えているのを見て、戦争が始まったことを知ります〉

 育ての母の兄・真喜志康倍さんが家に飛び込んできて「前島が燃えている。早く逃げなさい」と呼び掛けました。生みの親と、きょうだいと金武村に逃げるよう促されました。理由は分かりませんが、育ての母は一緒に避難しませんでした。

 真っ赤に燃えている前島の光景を見て、戦争が始まったと知りました。たくさんの火の粉が上がっていました。中之橋の方も燃えていました。ほほが焼け落ちないか心配になるほど、周囲が熱かったです。その後、泊高橋(現国道58号)を通って金武村まで避難しました。

 〈「沖縄県史」によると、10・10空襲における沖縄本島に対する最初の攻撃は午前7時~午前8時20分に実施され、最後の第5次攻撃は午後2時45分~午後3時45分でした。金武村に避難した親川さんは夜間に米軍機から攻撃されたと記憶していますが、10・10空襲とは別の出来事の可能性もあります〉

 その道中、夜に米軍機が照明弾を落とした後、機銃掃射があり「バラバラ」と音が響きました。米軍機が飛んでくるのが見えると、近くの草むらや木の下、サトウキビ畑に逃げました。

 ある時、木の下に座っていたおばあさんがいました。泣き出しそうな表情を浮かべて、「えー、ねーさん」と手を差し出して、一緒に連れて行ってほしいような様子でした。育ての母は私と避難するので精一杯でしたので、おばあさんを置いて、その場を離れました。「このおばー、かわいそうだな」と思いました。

 米軍機が飛んで来たので、近くにあったガマに入ろうとしたら、すでに人がたくさんいて入れませんでした。そこで、近くの林に身を隠しました。飛行機が過ぎ去り、ガマがあった場所に戻ると、入り口が崩れて、ふさがっていました。母は「このガマに入っていたら命はなかったね」と私に言いました。

 休憩をするために、道沿いの畑にあった小さなガマにも入ろうとしました。中には、たくさん人がびっしり座っていました。母が「中に入れてください」と声を掛けても誰も返事をしてくれませんでした。そこで、前列にいた4~5人に話しかけてみましたが、反応がありませんでした。肩を揺すってみると倒れ込んでしまいました。母は「みんな死んでいるかもしれない」と言って、その場を離れました。その言葉を聞いた私は恐ろしくなりました。

※続きは8月21日付け紙面をご覧ください。