幽霊?娼妓と歩く夜道で起きたドタバタ劇<112年前の沖縄の怖い話「怪談奇聞」>11


幽霊?娼妓と歩く夜道で起きたドタバタ劇<112年前の沖縄の怖い話「怪談奇聞」>11
この記事を書いた人 Avatar photo 熊谷 樹

台風の名残か、ざわざわと生暖かい風が吹いています。十五夜も終わりそろそろ秋の声が聞こえそうなものですが、まだまだ残暑が続いています。

明治から大正に改元した1912年8月5日、琉球新報で突如連載が始まった「怪談奇聞」。読者に投稿を呼びかけ集めた〝実話系〟怪談は、約1カ月34回にわたって連載されました。当時の琉球新報社には毎日2、3通の投書が届くほどの人気ぶりでした。

1912年の沖縄は、明治時代から続く風俗改良運動や旧慣改革で日本への同化政策が進められ、近代化と差別の間で揺れ動いた時代でした。「琉球王国」の名残を色濃く残した「沖縄」のリアルな怪談を紹介します。

連載第11回目も、娼妓に甘い言葉で頼まれ、歩く夜道で起きたドタバタ劇です。

文章は当時の表現を尊重していますが、旧字や旧仮名遣いは新漢字、ひらがなに変換し、句読点と改行を加えています。

怪談奇聞(十一)
滑稽幽霊談

明治三十七年の秋であった。ある日私は同僚二人と辻・後道の時小(ときぐゎー)で酒宴を催し、快飲の夜の更くるを知らず、午前二時頃時小を辞した。三人は西武門で人力車を駆り、若狹町大通りに出ると、人静まりて夜色沈々、時々秋風颯々(さつさつ)と身に吹き沁みて気爽やかであった。

私は車に揺られながら居眠りをやり始めた。そして若狭町市場のあたりまで来たかと思う。途端、急に体が傾斜したので、驚いて眠気目をこすって見ると車の片輪が道凹に落ちていたのだ。騒々しき市場も寂寥として駐車場は人力車の影さえ見えない。

那覇の崇元寺石門前で人力車に乗る人=戦前

やがて私は先方十数間ばかりから浴衣地の大柄を着たる一人の女が歩いてくるのが絵に映じた。私は女を怪しな奴をヂット見つめていると、女は一歩一歩接近して来て、私の車前に来ると顔面に微笑を浮かべて何事か私に向かって声を放った。

よくよく見ると年の頃二十二、三歳、色白容貌は尋常、たしかに一面識のある娼妓である。「しかしどこの誰でしたか。いっこう思いつかれない」。私は車の上を飛び降りたが、車夫はいっこう存ぜぬで前車に付いていく。それから私は彼女に向かい「お前はこの深夜に一人どこを行ったのか」と問うた。

1957年頃の若狹大通り

彼は低音にさも馴れ馴れしく「私は辻後道(くしみち)津波のカメというものでありますが、首里の馴染みにぜひ今夜で面会せねばならぬ急用がありまして、怖々ながらこの深夜を侵して行きました。けれどもその甲斐なく失望して帰る途中でありますが、夜半の淋閑しさ(さびしさ)に女一人では何となく物凄く怖くて怖くてたまりませぬ。はなはだご迷惑ではありましょうが、どうぞ私の家まで一緒に連れて行ってください」と嘆願する。私は厄介の者に出会ったと思うたが、彼女の色香に迷って快く承諾してまた元の辻に一緒に引き返すこととなった。

奇々怪々、女の左手を握ると氷のように冷たい。私は思わず手を離した。なお不思議なるは私がまっすぐ若狭町大通りに通ろうとするを、彼女は強いて潟原に下り小豚市場の西側にある小堀を指して私を誘う。いよいよ様子が怪しいので私はようやく驚きの動悸を打たせた。

その時、前の空車がやって来たので、私は声を限りに叫んだ。空車は私の前を駆けて来るや頓狂な声を出して「貴方は先の客?」と言う。そうだと答えれば「助けてくれ!」と悲鳴を上げて駆け出した。ついに那覇市中をクルクル回って家に帰ったが、後で考えると車夫先生はまた吾輩を幽霊と見ていたらしい。車に乗せたつもりのいつの間にか失っていたから怪しんだのも無理はなかろう。それにしてもかの怪しい女は果たして何者であったろう?(蘇孤生)

投書歓迎 本社怪談奇聞係宛のこと。

投書家へ。死霊看板、変じて消え失す(富見生)、死霊より返礼さる(あつこん)見合わす。

「怪談奇聞」(十)=大正元年八月十四日付琉球新報三面

怪談の舞台 若狹町村

那覇の北部に位置する、那覇四町の一つ。那覇で最も古くから手工業の発展した町で、特に漆器の町として知られていました。怪談の中にある「潟原」とは泊・前島に広がっていた塩田のことで、若狹町村の北側にあったアカチラの浜に続いていました。若狹町には漆器の小道具をつくる店が集まり、多くの職人も住んでいました。波之上宮や護国寺、天尊廟など琉球王国時代を代表する寺社が集まる村でもありました。

(次回は9月24日に掲載)