久々に会った別れた娼妓は実は死んでいた・・・その後続いた異変とは<112年前の沖縄の怖い話「怪談奇聞」>12


久々に会った別れた娼妓は実は死んでいた・・・その後続いた異変とは<112年前の沖縄の怖い話「怪談奇聞」>12
この記事を書いた人 Avatar photo 熊谷 樹

9月も終わりに近付いていますが、まだまだ暑い日が続いています。

明治から大正に改元した1912年8月5日、琉球新報で突如連載が始まった「怪談奇聞」。読者に投稿を呼びかけ集めた〝実話系〟怪談は、約1カ月34回にわたって連載されました。当時の琉球新報社には毎日2、3通の投書が届くほどの人気ぶりでした。

1912年の沖縄は、明治時代から続く風俗改良運動や旧慣改革で日本への同化政策が進められ、近代化と差別の間で揺れ動いた時代でした。「琉球王国」の名残を色濃く残した「沖縄」のリアルな怪談を紹介します。

連載第12回目は、ばったり会った別れた娼妓が実は亡くなっていて、その後異変が・・・という話です。

文章は当時の表現を尊重していますが、旧字や旧仮名遣いは新漢字、ひらがなに変換し、句読点と改行を加えています。

怪談奇聞(十二)
私の実験した不思議

明治三十一年、遊郭に検査騒動のあった歳である。自分はある友人の紹介で辻遊郭某楼の娼妓を買った。歳は二十歳。ちょっと名の売れた奴であった。自分はこの娼妓を買ってより、日々に睦ましい仲となり、ついに所帯の世話まで焼くようになったが、その時ちょうど検査騒動があって娼妓は競うて廃業をする。自分も義理に一万貫というお金を身代にやり、廃業させてやった。そして一時は二人で小店を張り、商売をしていたが、ある都合により離縁することとなった。

ところがその年の三月、自分はある監督のために岡上を見回っていた。するとしばらく中絶したかの妓は怪しげなる装飾をして柵外よりイサと草を提げてほそい道路を静かに静かに通り過ぎるのを見た。幾度となく互いに顔を見合わせたが、双方無言に行き過ぎた。

戦前の辻遊郭の風景(那覇市歴史博物館所蔵)

幾日ならずして、自分は友人から引っ張られて真昼間、辻に入り、自分の馴染み娼妓の住家(すみか)たりし某楼に行ったことがある。先に、かの妓と姉妹分たる某妓がいたので話の行きがかり上、かの妓の行く末を尋ねてみたら、去る正月二十日頃死んだという。そしてその日夜中で死骸は産地の中城に送ったと話す。

自分は一時精神恍惚となり、あえてその後を聞かずすぐ家に帰った。つらつら考えるにかの妓が死んだのは正月、自分が見たのは三月、いくらどう考えても不思議でたまらない。

さては近々中にかの妓の生村なる中城まで是非とも焼香に行かねば安心ができぬと一人で考えていると、三月はわれわれに年中の多忙な月でツイ延々しとるうち、毎夜熟睡している子供が時々怪しげなる声を立てて泣くので、女房は医者よユタよと手を替え人を替えて心配していた。所で不思議なのには一日三世相の言に、死んだ遊女の祟りとあるので、自分もとうとう包みきれず実は多少似たことはあると遂に白状した。

それからその明くる日、若干の祭祀料を持って、彼の中城なる生村に至り、実母を連れて墓参に行き、携帯の供物をそなえて香を焚き、堅く言い含め、後生極楽の念願を立てて、その晩帰途についた。

そして墓参をした後は子供の夜泣きは全く止まった。実にこればかりは不思議中の不思議で、私は今に不可解である。

かの妓の住所及び本名と拙者の見た場所とを明瞭(あきらか)に名乗るとなお一層の興味もあれば、事実を確かめる上にも都合よけれども、いささかはばかる所あればご推諒ありたし(某)

「怪談奇聞」(十二)=大正元年八月十六日付琉球新報三面

怪談の舞台 辻の検査騒動

1897年に制定された「娼妓身体検査規則」により、辻村で働く娼妓に性病検査が義務づけられました。入院設備がなく、検査で不合格となった娼妓はその部屋の入り口に赤い札を貼られたことから性病検査で摘発された娼妓を「赤札娼妓」(アカフダ-)と呼びました。1900年に県立若狭病院が設置され、週1回の検査で異常ありと診断されると強制入院させられ、良くなるまでとどめ置かれました。検査を嫌い、娼妓を辞めた者も数多くいたそうです。

(次回は9月27日に掲載)