百貨店、反物売り、映画館…商人の街はあの日焼き尽くされた 10・10空襲から75年 旧那覇市の町に立つ


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10・10空襲で店が焼け、戦後に再建した合資会社「新元」の新元庄一郎さん=1日、那覇市西

 戦前、旧那覇市の中心地は今の那覇市東町を中心とした一帯にあった。高さ23メートルの塔がそびえ、県内で初めて鉄筋コンクリート造で建てられた那覇市役所。市役所前を通る大門前(うふじょうめー)通り周辺には鹿児島県から移り住んだ寄留商人らが営む60余りの商店が並んだ。

 布マチ(布市場)では婦人が大きな傘を差しながら路地で反物を売り、山形屋百貨店に遠方から買い物に来た人々は近くのそば屋で昼食をとった。映画館2軒、大型書店や雑貨店も軒を連ね、連日買い物客でにぎわう。300年かけて築き上げられた豊かな那覇の街。そこで生きる人々の営みは、わずか1日ですべて灰となった。

 1944年10月10日、大門前通りと交差する石門(いしじょう)通りに近い化粧品店「新元」は普段と変わらない朝を迎えた。からっとした秋晴れが広がっていた。午前7時すぎ、当時17歳で那覇市立商業学校5年の新元庄一郎さん(91)は学校へ向かう身支度をしていた。お手伝いの女性が軍需工場へ作業に出てしばらくした後、突然、空襲警報のサイレンが街中に鳴り響いた。ほとんど同時に、店は砲弾の振動で揺れた。

 早朝から上空に航空機が舞っていたが、那覇の商人の誰もが「友軍の演習」と信じていた。父・亀次郎さんは慌てて店先や周囲を見て「大変だ」と叫ぶ。防空壕に逃げ込んだが、火災が徐々に通り一面へ広がっていった。空襲の合間に、避難用として一部を開けていた屋敷裏の石垣をくぐり抜け、市役所の塔の下を通り、旭橋方向へ向かった新元さん。いつもは買い物客でにぎわう街に歩いている人は一人もいない。時が止まったようだった。 (池田哲平)

家族で再建 忘れぬ意気

戦前那覇の中心地にあった明視堂の跡地に立つ荻堂盛進さん=1日、那覇市東町

 街を抜け、避難場所を探した新元庄一郎さん(91)=当時17歳=の親子は知り合いの那覇農園(現在の壺川)内にあった壕に逃げ込んだ。米軍は午後にかけて那覇の市街地を焼夷(しょうい)弾で徹底的に攻撃した。銃撃音は激しく、壕の中で思わず耳を押さえた。砲弾が撃ち込まれるたびに「地面がブランコのように揺れた」

 夕方、米軍の攻撃が終わると、街に再び静寂が訪れた。線路伝いに歩き、松川を通る頃には日は暮れていた。ふと、小高い場所から街の方向を見た。大きな火柱が街中を包んでいた。

 「これから先どうなるのか」。不安で仕方なかった。
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 那覇市東町の「サンシャイン通り」から一本入った駐車場の一角にひっそり建つ小さな記念碑。「昔この地に明視堂なる町家あり。(中略)親の為世の為『ハタラケ トキハ カネナリ』を一から十まで符諜に切磋琢磨(せっさたくま)し商道に汗を流す」。この碑は戦前、那覇の街にあった雑貨店「明視堂」の元従業員らが1993年に建てたものだ。

 明視堂は寄留商人の山下悳三(とくぞう)さんが開業し、眼鏡やキセル、ラジオや子供服などさまざまな雑貨を扱う店だった。市内の全小学校に二宮金次郎像を贈ったり、商業学校に通う生徒を対象とした奨学資金を提供したりするなど、社会貢献活動にも熱心だった。

 1936年ごろ、当時16歳で、明視堂にでっち奉公していた荻堂盛進さん(98)は碑文の前に立ち、活況だった店の様子に思いを巡らせた。住み込みで働き、荷物を載せた人力車を押して大門前通りを何度も行き来した。自転車で本島北部まで荷物を届ける従業員もいたという。

 荻堂さんは1940年ごろに出征したため、明視堂の最期は見ていない。ただ、寄留商人らの息遣いは今も心に残る。「沖縄の人に対しての思いはとても強かったよ」。碑の前で何度もうなずいた。

 石門通りにあった「新元」は10・10空襲で跡形もなくなった。戦後、再び店を興し、現在は主にタオルを扱う合資会社「新元」として当時の店の近くに店舗を構える。父・亀次郎さんと共に店を復興させた新元庄一郎さんは「あの空襲で生活は一変した。何もないところから家族で一つ一つ再建していった」と語る。

 戦後、那覇の元の市街地は米軍の物資集積所となり、立ち入りが禁止された。商売の中心地も牧志や壺川へと移っていった。だが、旧那覇の中心地で生きた商人たちの思いは、今も街の片隅で息づいている。 (池田哲平)

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 1944年10月10日に起きた「10・10空襲」から75年の節目を迎える。旧那覇市街地の90%が焼失し、本島中北部や先島、周辺離島の港湾などが攻撃された。各地の空襲にまつわる「場所」に立ち、空襲被害を追体験する。