島が焦げている… 登校途中に次々と米軍機から爆弾 見慣れた風景が一変するのを目撃した男性の戦後は


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空襲時、土手に隠れながら炎に包まれる伊江島を眺めていた場所に立つ知念一郎さん=3日、本部町渡久地

 「その日は非常に秋晴れだった。雲一つない爽やかな日だった」。本部国民学校2年生だった知念一郎さん(83)は、日常が一瞬にして灰になった当時の光景が今も脳裏に焼き付いている。

 毎朝、7時前に本部町野原の家から山道を下り、同町渡久地にある学校へ向かう。小さな橋を渡ると料亭が1軒。向かいの市場で買い物をする人でにぎわう。知念さんの家族は、自宅の田んぼで育てたイモや麦を抱えて山道を下り、市場でしょうゆや塩に換えた。祭りの時期には渡久地の大通りで綱引きや旗頭があり、町中から人が集まった。

 1944年10月10日午前7時前、いつものように学校まで片道3・5キロの山道を1人で歩いている途中、けたたましい音を立てて何十機もの飛行機が上空に現れた。眺めていると、空襲警報のサイレンとほぼ同時に渡久地の街に爆弾が落ちた。爆弾が次々と落ち「ボンボン」と音が響いた。道の先に並ぶ松の木が倒れるのを見ながら学校へと向かった。「日本軍の演習だと思い込んでいた」

 50メートル先の畑でイモを掘っていた青年が「隠れろー」と大きな声で叫んだ。慌てて近くの土手の下に体を潜めた。海の向こうに見える伊江島にも次々に爆弾が落とされ、炎と黒煙に包まれた。知念さんは「島が焦げていると思った」と話す。「それを見て本当の戦争だと分かった」

 午後1時ごろ、空襲が一時的にやんだ頃を見計らって、泣きながら家に向かって山道を走った。「土手の下でずっと恐怖を感じていた。一日中隠れていたように感じた」。自宅にたどり着き、渡久地の上空に上がった黒煙と燃え上がる伊江島を眺めた。幸い山の上の自宅は焼けなかった。

 7人兄弟のうち4人は軍事工場などに徴集され、実家を離れていた。空襲時は祖父、父、母、兄2人と6人で暮らしていた。母以外の家族は外出していたが、夕方には全員が集まって無事を確認した。

 次の日の夕方、集落の友人たちと空襲で焼けた渡久地の街を見ようと山道を降りた。衣料品屋や商店など、どの建物も柱だけになり、見慣れた景色は焼け野原になっていた。米屋があった場所からまだ煙が上がっていた。「すごく香ばしい匂いがした」と話す。

 校舎もほとんど焼け、年末には授業もなくなった。学ぶ機会を奪われたまま、終戦を迎えた。戦後は小学校教員や大学教員として働いた。退職後も県内の小学校に出向き、平和教育活動を続けてきた。「平和は努力しないと実現しない」。穏やかな時間が流れる渡久地の住宅地から静かに伊江島を見つめた。
 (上里あやめ)