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人口100人の集落で起きたこと 米軍ヘリ炎上、住民が国に訴えられる…沖縄・高江の苦悩


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子

 青々と茂る森や壮大な太平洋を見下ろせる高台が広がる。昼はヤンバルクイナやノグチゲラが鳴き、夜は満天の星空に包まれる。そんな自然豊かな沖縄本島北部、東村の端にある人口100人の小さな集落が高江だ。全国一の生産量を誇るパイン産業を生活の糧にする人が多い、のどかな集落に米軍普天間飛行場所属のCH53E大型輸送ヘリコプターが不時着、炎上して11日で2年になる。自然に囲まれたこの場所に米軍のヘリが不時着し炎上したのはなぜか。ヘリ炎上にとどまらず、ヘリ発着場(ヘリパッド)新設など米軍基地問題に翻弄(ほんろう)される高江住民の苦悩の12年間を当時の記事や写真を基にまとめた。

(田吹遥子)

やんばるの山々=2013年、東村

 不時着場所は民家からわずか200メートルしか離れていない牧草地だった。「死んでいたかもしれない」。牧草地を所有し隣接する民家で暮らす西銘晃さん(66)の妻・美恵子さんは当時、琉球新報の取材にこう答えた。収穫時期を迎えようとした牧草地に誰もいなかったことは奇跡に近かった。

牧草地に不時着し炎上する米軍普天間飛行場所属の大型輸送ヘリコプターCH53E。飛んでいる飛行機はバケツから水を流して消火活動中=2017年10月11日、東村高江

米軍基地に囲まれた集落  

実は、高江は米軍基地に囲まれている。集落の周りを囲む森そのものが米軍の訓練場となっている。

米軍北部訓練場=2016年10月、東村(小型無人機で撮影)

 1957年に米軍に接収されて以来、7543ヘクタールが米軍の北部訓練場となった。沖縄県のホームページによると、ゲリラ訓練などができる訓練場のほか、ヘリ発着場が2019年現在、21カ所ある。ベトナム戦争の頃には、米軍が訓練場内に「ベトナム村」を造り、高江の住民をベトナム人役にさせていたこともあった。猛毒のダイオキシンを含む枯れ葉剤が散布されたとの証言もある。

 1996年12月、日米合同特別委員会(SACO)で、北部訓練場の過半に当たる3987ヘクタールの返還が決まった。しかし、返還地域の国頭側にある発着場6カ所を高江集落周辺に移設し、新たに建設することが返還の条件となった。普天間飛行場の名護市辺野古移設と同様、県内移設が高江住民に突き付けられた。

国が住民を訴えた  

 高江住民はヘリパットの移設に伴う新設に強く反対した。幾度の決議で中止を求めてきた。しかし、2007年7月早朝、沖縄防衛局は工事に着手。大型トラックによる資材搬入を止めようと、高江住民たちが座り込みを始めた。

住民が座り込みを行う中、警備員がゲートを開ける=2007年7月3日午前8時2分ごろ、東村高江

 08年には、防衛省と沖縄防衛局が8歳の子どもを含む住人15人(子どもは後に取り下げ)を相手取り通行妨害禁止を求める仮処分命令を那覇地裁に申し立てた。国が個人の表現活動を萎縮させる「スラップ訴訟」と、専門家から批判の声が相次いだ。裁判に発展し、14年に最高裁が住民の上告を棄却、住民側が完全に敗訴した。

工事着工を阻止しようと、ダンプカーを取り囲み緊迫した雰囲気になるヘリパッド工事現場=2011年年2月22日午後2時すぎ、東村高江

 昼夜問わず座り込む住民をよそに、国は工事を強行し続けた。2014年までに南側のヘリパット(N4地区)の2カ所が完成。16年からは北側の4カ所(N1地区2カ所、G地区、H地区)の建設工事を再び開始した。

 

ヘリパッド工事再開

資機材搬入に抗議する住民らをごぼう抜きする機動隊員=2016年7月11日午後1時22分、東村高江の北部訓練場メーンゲート前

 ヘリパッドの工事再開は、参議院選挙投開票日翌日の2016年7月11日の朝だった。午前6時すぎ、国は100人の機動隊と20人の民間警備員を高江のゲート前に送り込んだ。高江住民をはじめ村外から駆け付けた市民60人と機動隊とのにらみ合いが始まった。それから5カ月間、双方が激しく対立する中、市民から逮捕者が出たり、記者が機動隊に囲い込まれて取材妨害を受けたり、機動隊が住民に対して差別発言をしたりするなど、さまざまな問題が噴出した。

機動隊にごぼう抜きされる反対市民ら=2016年7月21日午後10時54分、東村高江

 それでも国は工事を進め、16年12月までに全てヘリパッドが完成。北部訓練場の4010ヘクタールが返還された。国は、返還による沖縄の負担軽減を強調するとともに、返還跡地もやんばる国立公園に組み込み、世界自然遺産候補地として再推薦する方針だ。

ヘリパッド建設工事再開に着手した沖縄防衛局ら=2016年7月22日午後1時半すぎ、東村高江

 

そしてヘリ炎上…  

高江の牧草地で墜落炎上する米軍のCH53大型輸送ヘリコプター=2017年10月11日午後6時すぎ、東村(読者提供)

 6カ所のヘリパットが完成し、南側の2カ所で米軍による運用が始まっていた2017年10月11日午後5時20分ごろ、事故は起こった。大型輸送ヘリが東村高江の車地区の牧草地に不時着し、炎上したのだ。機体は大破、しかし周辺住民や乗組員ともにけがはなかった。

 当時、事故現場周辺は消防や警察、米軍の車両が行き来し、赤色灯とライトで照らされた。油が燃える匂いが充満し、集落は騒然となった。

 牧草地を所有し近くに住むのは西銘晃さんの一家。事故当時、妻の美恵子さんは自宅の庭で草刈りをしていた。現場から100メートルの豚舎にいた義父の清さんに声を掛けられ、庭にあるタンクに上ると牧草地から黒煙が上がり、炎が上がっているのを目撃したという。

牧草地に不時着し炎上する米軍のヘリコプターCH53E=2017年10月11日午後6時15分、東村高江

 西銘さん一家は、牛やヤギの餌になる乾燥させた牧草を売って生計を立てている。事故当時、牧草は収穫時期のピークを迎えていた。事故を受け、沖縄防衛局は牧草の品質が事故前と同等に回復するまで損害を補償することを決めた。国が約束していた損害補償は依然支払われず、西銘さんは「突然音沙汰もなくなり、まるで忘れられたようだ」と懸念する。西銘さんは「何事もなかったかのように畑や民家の上を(米軍機が)飛んでいく。2年たっても何も変化はない」と語った。

事故現場の牧草地で、見通しの立たない補償への不安を吐露する西銘晃さん=2019年10月8日、東村高江

 米軍は事故現場となった牧草地の土壌を持ち去った。2004年の沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故と同様の行動に出た。その一部は日本政府に知らせずに既に県外で処分していた。沖縄県民からは事故の実態を検証する重要な材料が失われたことへの反発が高まった。

 

高江での生活は続く

高江集落=2019年10月8日、東村高江

 ヘリ炎上事故当時やヘリパッド建設で大規模な抗議行動があった2年前と比べ、高江に報道関係者や村外から駆けつける人の数も少なくなった。一見、集落住民に平穏な生活が戻ったかのように見えるが、南側のN4地区の発着場が米軍に提供された2015年2月以降、騒音が激化している。防衛局による調査では14年度(午前7時~午後7時)に牛道で記録した年間の60デシベル以上の騒音は1280回、提供後の15年度には3686回と約3倍。18年度は最多の5327回を記録した。深夜に及ぶ米軍機の飛行もあり、今も住民の静かな夜を脅かし続けている。

県道70号沿いの上空で同時に訓練をするオスプレイと米軍ヘリ=2017年1月18日午後0時9分、東村高江の米軍北部訓練場N4地区付近(宮城秋乃さん提供)

 ことし9月には約11キロ離れた隣村の国頭村安田の返還地に米軍がヘリを誤って着陸した。国は北部訓練場過半の返還で負担軽減を強調するが、住民は常に危険と隣り合わせの暮らしを強いられているのが現状だ。

 9月、高江の人たちは久しぶりの豊年祭の準備に精を出していた。ヘリパッド建設による混乱で開催せきなかった前回の豊年祭の分も取り戻すように、住民が毎日集まり、練習に励んでいた。集落の人口は、高齢化が進み、この6年で少なくとも50人減少した。かぎやで風の練習を見ていた仲嶺久美子区長(69)は「かぎやで風は中学生が踊る演目だけど、高江は中学生が1人しかいない。だから1人は小学生なんです」とつぶやいた。

6年ぶりの豊年祭に向けて踊りの練習をする区民ら=2019年9月9日、東村の高江公民館

 人口は少ないながらも、昔から住んでいる住民も県外から移住してきた人も一緒になって豊年祭を作り上げ、盛り上げていた。

高江の豊年祭=2019年9月13日、東村高江公民館

 一番のみどころとなったのは成人会によるオリジナル劇「パイン太郎」。高江の自然を壊して開発をしようとする業者をパイン太郎とヤンバルクイナ、イノシシなどが止めるという物語。最後は自然を生かした村おこしを提案し、みんなが仲良くなってハッピーエンドで終わる。高江生まれ高江育ちの西銘芳さん(90)は「最高」の一言。高江に住む石原岳さん(49)は高江住民の苦悩を脳裏に思い起こしながらこう強調する。「(高江では)いろいろとあった。それでもまたみんなでつながりを確かめ合ってやっていく」。

パイン太郎の演劇を披露する高江の成人会。拍手が広がる=2019年9月13日、東村高江公民館