重圧で困難からスタート 最後までやりきり納得 ロス・ソウル五輪近代五種代表 泉川寛晃さん うちなーオリンピアンの軌跡(5)


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五輪日本代表のウェアをはおり、射撃で使う銃を手に持つ泉川寛晃=9月26日、東京都の日本体育大学

 乗馬、フェンシング、水泳、射撃、クロスカントリーを5日間で競った近代五種は、高い万能性が求められることから「キングオブスポーツ」と呼ばれる。元甲子園球児の泉川寛晃(61)=東京都在住=が30歳で挑んだ1988年のソウル五輪。「有終の美を飾ろう」と挑んだが、重圧の日々からか、1種目の乗馬が始まる前から過度な倦怠感で体がいうことがきかない。競技中、崩れるように落馬した。

 五輪出場までもがき苦しむ日々を過ごしてきたが、同年9月18日から始まった大舞台も困難からスタートだった。

■未知の世界

 泉川は石川市(現在のうるま市)で生まれた。宮森小で野球と出合い、75年石川高3年の夏では一番打者遊撃手で甲子園2回戦まで進出した。父子家庭で生活が厳しく、高校を卒業した76年に自衛隊に入隊した。運動能力を評価され、試験を受けて自衛隊体育学校へ異動。教官に近代五種を勧められた。過酷な競技のために当時の選手は自衛隊員や警察官ばかりだった。泉川にとって馬に乗る、極細のサーベルを操る、銃を構えることは未経験。走りはできても、水泳は25メートル泳ぐのがやっと。だが、一種目でも欠けると勝てない競技性から、どれも手が抜けなかった。

 練習時間は毎日7時間。がむしゃらな努力で経験不足を補い、82年の東京国際大会と全日本選手権で優勝を果たす。実績を積んだ競技歴6年目、ロサンゼルス五輪で日本代表となった。

 日本代表4人中、出場できるのは3人。26歳で最年少だった泉川は練習着の洗濯など「先輩の小間使いだった」。出場できない悔しさで、4年後へ闘志を燃やした。

 自衛隊体育学校にある近代五種チームの最年長になると練習メニューを考えた。本や雑誌から情報を漁り、当時では新しい「はちみつレモン」なども実践した。力不足の水泳は後輩から指導を受け、練習付けの日々。長時間戦い続ける体力、集中力を底上げした。

 そして、ソウル五輪最終選考会で3位に入り、2度目の五輪代表となった。

フェンシングで1勝する泉川寛晃=1988年9月19日、韓国・ソウル

■戦い続ける

 大会初日。起床時から体がだるかった。朝の走り込みが拍車を掛けた。競技が始まり、割り当てられた馬と障害を越えるが「頭はぼわーんとしていた」。ゴール直前で落馬し、時間切れ。追い込みすぎた重圧は予想以上だった。選手交代も考えたが、爪痕を残せなかったロサンゼルスの悔しさが自分を奮い立たせる。馬術は0点だが「ゼロからのスタートと思うと吹っ切れた」。2日目からが勝負だった。

 フェンシングは出場選手64人の総当たり戦。延々と続くような短期決戦にヘトヘトになるが、攻める姿勢は貫いた。3日目の苦手な水泳300メートルは、自己ベストに近い3分53秒47。「やってきた練習が報われた」。射撃は緊張で力を発揮できなかった。最後のクロスカントリーは勾配のある4キロをペースを維持し、13分17秒42で16位。五種目の中で自身最高位だった。通算成績は65位の最下位だが、「最後まで頑張れた」という。

 競技翌日の琉球新報の紙面では泉川の言動はこう報じられていた。

 「『少しでも上位に行きたかったので息が抜けなかった。棄権せず最後まで試合に出て、順位と最終の得点が出たことがうれしい』と同競技に出場した自衛隊3選手のまとめ役として、暗さはみじんも見せなかった」。

 あれから31年。思い返せば最下位という事実に「悔しい思いがこみ上げる」と、苦い思い出でもあることを明かした。

ソウル五輪近代五種を終えた日本代表。中央が泉川寛晃=1988年9月22日、韓国・ソウル

■世界と戦う選手育成

 ソウル五輪後は自衛隊体育学校で8年間コーチを務めた。現役時代、休養を取らず我流で追い込み、失敗した経験から個々の選手がつまずかないように気を配る。複数で協力しあう体制の重要性も伝えている。

 2001年からの4年間はナショナルチームの監督を務め、現在は、東京都の日本体育大学内にある日本オリンピック委員会近代五種競技強化センターの拠点長。近代五種の中で、射撃、ラン、水泳を子どもたちに教える機会を設けるなど、後進の育成に心を砕く。オリンピックにおける近代五種で、日本勢はいまだにメダルに届かない。オリンピックを経験した一人として「いずれ発掘した子が五輪の表彰台に上がる姿を見てみたい」と、静かに戦い続けている。

 (敬称略)
 (古川峻)