自他共に認める「平凡」な選手が多くの困難を乗り越え、バルセロナ五輪(1992年)の重量挙げ男子52キロ級のプラットホームに上った。身長161センチ、体重48キロ。伊禮淳(52歳、香川スポーツ協会)は糸満高時代に出場した最初の大会では、体重の半分も挙げられなかった。毎年全国優勝選手が出て、県内で勝てば全国で勝てる強豪県の沖縄。当時は目立った選手ではなかったが、指導者に恵まれ、自身もひたむきにバーベルに向き合い、同競技県勢2人目となる五輪出場を果たした。
■やんちゃ
学校をサボり気味だった伊禮に、担任で重量挙げ部の監督をしていた豊見本朝弘さん(73)は「(部活を)ちょっと見に来い」と一言。軽量級の選手が不足しており、指導も兼ねて誘った。どうにか断ろうと逃げ続けるが、「大丈夫、もう1人同級生がいるから」の言葉を信じて練習に顔を出したが、次の日にはその同級生はいなくなっていた。「ますます辞められなくなった」とそのまま競技を続けた。
豊見本さんは、スポーツの指導のほか、生活面での指導も多かった。何度も2人で話し合った。少しずつ力を付けた伊禮は「楽しいとは思わなかったが、興味は持てるようになった」と振り返る。努力の分だけ記録になる競技に魅力を感じた。3年時の全国総体では3位入賞を果たした。学力が不足していたが、スポーツ推薦なら可能と、九州共立大へ入学を決めた。「あと4年遊べるから」とまだ本気ではなかった。
■少しずつ本気に
モントリオール五輪(76年)へ出場した島屋八生監督の指導は厳しかった。バーベルをラックから外し、ジャーク動作を行う「ラックジャーク」は苦手だった。チームメートは夕方に練習を終えていたが、ノルマをこなせず、1人だけ居残りをした。夜10時を過ぎることもあった。
遅い時間になると島屋監督がひょこっと練習場を見に来て「終わったか」と尋ねる。伊禮さんはため息をつきながら「終わるわけないじゃないですか」と笑顔で答えていた。毎日がハード。「でもそういう練習で力をつけてきたと思う」と成長を実感していた。
大学2年、3年は世界ジュニア選手権に出場した。3年のユーゴスラビア大会は7位に入賞した。世界でも戦えることを実感した大会だった。だが全日本選手権では2位常連の伊禮に、島屋監督から「お前はいつも2番だな」と言われていた。
大学卒業後は沖縄へ戻ることも考えたが「沖縄では代表で国体に出られるレベルでもない」とあきらめた。90年の福岡のとびうめ国体に合わせ、開催県にある安川電機に強化選手としてオファーを受けた。福岡のために得点を取らなければならず、「どうしても結果を残さないといけない」と死にものぐるいで練習に臨んだ。福岡国体は優勝を果たした。
■五輪が目標になる
この優勝をきっかけに、「夢」だった五輪が「行けたらいいなから、行きたいに変わった」。93年の東四国国体の開催地である香川のスポーツ振興財団から強化選手として声が掛かり、香川の地へ移った。職場にあるトレーニング室には勤務前後に行き、いつでもバーベルを握った。
五輪選考会(91年)は2位だったが、世界ランキングで6位以内に入っていたことで、五輪出場枠をつかみ取った。日本代表の直前合宿では当時の外国人監督を招聘(しょうへい)した。適切な負荷を掛けて練習する日本式ではなく、毎日限界の重量を上げる練習法を取っていた。当時26歳。「後輩はそういう練習もしていたが、私は慣れてなかった」と無理をした。
慣れない練習は減量にも影響し、不調に陥った。自己ベストはスナッチ107・5キロ、ジャーク127・5キロのトータル235キロ。だが五輪は100キロ、122・5キロのトータル225・5キロと10キロ近く下回る結果に。9位で惜しくも入賞を逃した。「悔しくて悔しくて」。結果は不完全燃焼。だが五輪の地は「見るもの聞くもの全てが新鮮で、自分がいるのが不思議だった。本当に出られたんだな」と万感の思いだった。恩師の豊見本さんは「競技をしていなかったら道にそれていたかもしれない。本当に大きくなったな」と教え子の成長を喜んでいた。
■後進育成
五輪後は香川代表として東四国国体に出場し、優勝に貢献した。その後は香川で強化委員長を務めた。93年の国体以前の香川は競技者や指導者がほとんどおらず、「(文化が)ほとんどゼロ」の状態だった。一線を退いた後の伊禮は、ジュニアアスリートクラブで選手を指導するなど、普及と育成に力を入れてきた。
今では香川は国体でも毎年上位に進出する強豪県へと成長した。「いつかはオリンピックに出場する選手が出てほしい」と、指導者たちから受けた恩を次世代へつないでいく。
※注:伊禮の「禮」はネヘン
(敬称略)
(喜屋武研伍)