戦時下の海で700人以上の沖縄県民が犠牲になっていた アラスカ半島からインド洋まで  本紙調査で判明  


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多くの県出身船員の犠牲者を出した戦時徴用船「開城丸」(戦時遭難船舶遺族会「海鳴りの底から」から接写)

 アジア太平洋戦争時に、日本軍が民間船を徴用した「戦時徴用船」の船員として、少なくとも340隻以上で700人以上の県民が太平洋全域とインド洋で犠牲になっていたことが31日までに分かった。琉球新報社が「戦没船員名簿」(1972年、戦没船員の碑建立会)を基に、近年の戦時徴用船に関する調査結果を加味した上で、729人分のデータを分析した。県は県民の船舶犠牲者数を3427人としているが、戦時徴用船の船員らはこの数に含まれておらず、さらに多くが戦時下の海で亡くなっていたことが明らかとなった。

 日本政府は戦時下にあらゆる船舶を自由に活用できるよう、1942年に「戦時海運管理令」を発布。それに基づき、日本軍が民間船を徴用し、陸軍徴用船(A船)、海軍徴用船(B船)、資源や物資などを運ぶ輸送船(C船)に役割を分けた。

 国立国会図書館が所蔵する戦没船員名簿などによると、亡くなった際に沖縄に本籍のあった729人のうち、A船で230人、B船で304人、C船で195人が犠牲となった。また、戦時海運管理令が発布される以前の1938年ごろから県民の犠牲者がいたことも分かった。

 琉球新報の分析は、犠牲者が亡くなった場所を地図に落とした上で最も近い陸地や海域に割り当て、エリアごとの犠牲者数を探った。犠牲となった地点は北は米アラスカ半島からロシアのカムチャツカ半島にかけて延びるアリューシャン列島、南はニュージーランドやインド洋まで、広範囲に広がっていた。

 最も死亡者が多かったのは南洋群島・ニューギニア周辺の海域で164人、続いて沖縄や小笠原諸島を含む日本周辺の海域で124人、バシー海峡を含むフィリピン周辺海域で103人だった。
 (池田哲平)