なぜ沖縄に米軍基地ができたのか? その歴史を改めて振り返る


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 激しい地上戦で4人に1人が犠牲となった沖縄戦の終結から2020年で75年を迎える。人々でにぎわったまちゃーぐゎーや農家が開拓した耕地は間断なく降り注ぐ艦砲と空襲、激しい地上戦で焦土と化し、県民は命だけでなく家屋や畑など多くの財産を失った。その後の米占領で接収された土地に基地が築かれ、故郷を失った人々は別の場所に暮らさざるを得なかった。戦後75年を経た今も多くの地域で土地が軍用地に奪われ、消えたままの集落がある。かつての住民は故郷に思いを寄せ、再興を望んでいる。軍用地の移り変わりや土地を奪われた各村の状況などをまとめた。

米軍が普天間飛行場の用地として接収した宜野湾・伊佐浜で反対の座り込みをする住民ら=1955年7月ごろ撮影(県公文書館所蔵)

 1945年4月1日に北谷町、嘉手納町、読谷村へ上陸した米軍は民間地を占領して基地建設を強行した。72年の日本復帰前の米軍基地は県土の12・8%、沖縄本島だけで見ると20%に及んだ。その後返還は進んでいるものの、嘉手納基地や普天間飛行場、キャンプ・ハンセンなど主要基地は返還の見通しが立たず、戦後75年がたとうとしている今も、県土の8・2%、本島の14・6%を米軍基地が占める状態が続いている。

 米軍は本島上陸のわずか4日後、45年4月5日に軍政府を設置し、沖縄の支配を宣言した。米軍は住民を収容所に強制隔離した上で、軍用地に必要な土地の接収を始めた。沖縄の基地は当初、極東政策上、特に重要とはされていなかったが、朝鮮戦争が始まったことなどから方針を転換。基地の能力を強化し、沖縄は「太平洋の要石」と呼ばれるようになった。

 52年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立国として主権を回復したが、沖縄は本土から分断され、米国の施政下に置かれたままとなった。米国はこの後も、既に接収した軍用地の使用と新たな接収を正当化する布令を次々に発布した。中でも53年4月に発布した布令109号「土地収用令」は、地主に諾否を尋ねるものの、同意がなくても強制的に接収することができるという内容で、那覇市の安謝や銘苅、宜野湾市伊佐浜などでは武装兵が強制的に接収を敢行。「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる米軍の凶行に、住民らは激しく抵抗した。

米軍嘉手納基地。左奥は、読谷村の残波岬、左中央には旧読谷飛行場も見える=2009年12月撮影

 その後、軍用地料の支払いを巡る問題に端を発した「島ぐるみ闘争」などが起きたが、ベトナム戦争などを機に、米軍は基地の機能強化のため、新規の土地接収を続け、復帰前には約287平方キロメートルが基地となった。復帰後、軍用地は徐々に返還されているものの、軍事的要衝とされる基地の返還は見えない。96年12月には普天間飛行場の全面返還を含む11施設の返還が日米で合意されたが、政府が普天間飛行場の移設先とにらむ名護市辺野古沖は県民の反対や軟弱地盤に伴う工期の延長など、計画そのものの妥当性が疑われる事態となっている。

 これらの結果、本土では60%の米軍専用施設が返還されたのに対し、沖縄では33・3%にとどまっている。国土面積の0・6%にすぎない沖縄に、全国の70・4%もの米軍専用施設が集中する状況となっている。