なぜ基地の周辺に住むの? 戦争で「地元」をなくした人たちの歴史


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普天間飛行場の周辺には多くの住宅が建ち並ぶ=2019年9月7日、宜野湾市(金良孝矢撮影)

 沖縄本島や周辺離島に上陸した米軍は住民を収容所に隔離している間、基地の建設を進めた。家があった土地や畑を米軍に奪われ、元の集落に戻ることもできなくなった住民はやむなく基地の周辺に集落を築いた。生活の糧を失い、米軍相手の商売を始める人がいた。苦境を脱するため、海外に移住する人もいた。米軍による基地接収は多くの県民の人生を翻弄(ほんろう)した。

 1945年8月の敗戦後、沖縄全域を占領した米軍は10月ごろから、収容所に送っていた住民に元の居住地への帰還を段階的に進めた。基地にかつての家屋敷を奪われた住民は出身地近くで一時的に居住し、戦後復興の歩みを始めた。

 嘉手納基地や普天間飛行場、読谷補助飛行場などが建設された嘉手納町、北谷町、沖縄市、宜野湾市、読谷村などでは返還が進まず、基地に丸ごと飲み込まれた集落の住民は基地周辺に新たな集落を築かざるを得なかった。55年の強制接収で土地を奪われた宜野湾市伊佐浜の住民の中にはブラジルに移住した人もいる。

 返還は72年の日本復帰に伴ってようやく前進し、現在までに那覇市以南でほとんどの米軍基地がなくなり跡地利用が進んだ。中部では読谷村で補助飛行場などが返還された。北谷町も徐々に軍用地が縮小し、商業地域が生まれ、地域の活性化を促した。ただ同町はこの間に行政区を再編するなど基地形成によって大きな影響を受けた。

 極東最大の米空軍基地である嘉手納基地は機能強化の一途をたどっている。北谷町下勢頭や嘉手納町野国や野里など5字の土地は全て飛行場施設の下に沈み、沖縄市森根や宇久田など6字も同基地の敷地内に残されたままだ。読谷村牧原も嘉手納弾薬庫内にある。拝所も基地内にあるため、一部の郷友会では年に1度基地内に入り、祭祀(さいし)を行うなど村の記憶の継承に取り組んでいる。