懸命に働き生き抜く 親川委代さん 壕の中で(6)<読者と刻む沖縄戦>


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現在の本部町山川。ツルさんは路線バスで野菜を運び、那覇で売ったという

 親川委代さん(85)=那覇市=の両親と弟が1946年、大阪から本部町山川に引き揚げてきました。家族がそろうのは約5年ぶりです。

 「父母は沖縄が全滅したと聞いていました。家族の骨を拾うために沖縄に帰ってきたようです」と委代さんは語ります。家族が増えた分、食料に困るようになり、ソテツを食べる生活が続きます。委代さんの家族だけではありません。山川集落の住民は皆、生きるのに懸命でした。

 《戦後の復興には身内、他人の区別なく、部落中がユイマールの心で立ち上がりました。戦後2年目、やっと茅葺(かやぶ)きの校舎ができました。》

 家族は戦後、現在の海洋博記念公園内にある熱帯ドリームセンターの周辺で暮らすようになります。父の清睦さんは50年5月から1年半ほど山川の区長を務めます。母ツルさんは野菜の行商を始めました。中学を卒業した委代さんは、洋裁学校で半年間学んだ後、家計を助けるために働きます。

 「本部や今帰仁で仕入れた野菜を路線バスに載せて那覇に運び、市場で売りました。帰りは新天地市場で衣類を仕入れ、本部や今帰仁で売ったり、野菜と交換したりしていました。しっかりした、働き者の母でした」

 そのツルさんは55年12月、突然、病に倒れました。ツルさんは被爆者でした。広島に原爆が投下された45年8月6日、広島市内にいたのです。