収容地区でマラリア流行 津波高徳さん 壕の中で(19)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
南部の住民らが収容された名護市大川。マラリアの犠牲者が多かった

 知念村(現南城市知念)志喜屋で米軍に捕らわれた津波高徳さん(86)=那覇市=は米軍のLST(戦車揚陸艦)で久志村(現名護市)辺野古に運ばれ、大浦や大川の収容地区に移動しました。

 《辺野古に陸揚げされ、久志の大浦、大川に分散し、居住を強制された。大川ではマラリアが流行し、多くの老人たちが犠牲になった》

 その後、佐敷村(現南城市佐敷)津波古の壕で別れた母カマさんが現在の宜野座村漢那の収容地区にいることを知り、会いに行きました。カマさんと一緒に壕に残った父の高吉さんは亡くなっていました。夫の最期をカマさんは詳しく語ることはありませんでした。

 収容地区で日本軍の敗残兵に襲撃されたことがあります。

 「2、3人の敗残兵が食料をあさりに来ました。1人は銃を持っていました。住民は米軍から缶詰をもらっていました」

 壕に隠れ、本島南部の激戦地を逃げ回った年から75年になります。新型コロナウイルスの感染拡大の中で高徳さんは収容地区のことを思い出しています。

 《現在のコロナは病態は異なるが、マラリアで犠牲になった老人たちと重なって見えてくる今日この頃です。》

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 津波高徳さんの体験記は今回で終わります。次回から比嘉初枝さんの体験記を紹介します。