[日曜の風・吉永みち子氏]「誤解」に拒否感 巧妙に本質すり替え


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 ある言葉にずっと「それ、違うだろ!」と憤慨を感じ続けていると、ある時急にその言葉を聞くとアレルギー反応のように全神経に拒否感が走るようになる。その代表格が、「誤解」という言葉だ。直近の発作は、先週の高市早苗総務大臣の記者会見で起きた。かんぽ生命の不正販売を追及したNHKの番組に経営委が介入した件での会見で、こう言ったのだ。

 「経営委が個別の番組に介入していると誤解されるような発言は望ましくない」

 私の読んだ新聞では、この発言を大臣が経営委を批判と報じていたが、それなら「介入するのは望ましくない」とはっきり言えばいい。真ん中に「誤解」という言葉をわざわざ入れることで、巧妙に批判をかわしたと私には見えるのだ。

 望ましくないのは誤解されるような発言であって、問題の本質を介入から発言にすりかえている。毎日新聞が報じた議事録を見たけれど、誰がどうやったら誤解するんだというほど明確な介入であり放送法違反であるのは明らか。

 そのちょっと前。コロナのPCR検査が37・5度以上の熱が4日続いたら受けられるという国民のだれもがそう理解していたことについての加藤勝信厚生労働大臣の発言。

 「それは目安であって基準ではない。そう理解していたとしたらそれは我々からみたら誤解だ」

 つまりバカな国民が勝手に誤解したんであって、我々は悪くないって言いたいんだな。そもそも目安と基準は同義語でしょうが。「募っているけど募集はしていない」という安倍晋三総理の桜を見る会に関する追及での発言を見習ったんでしょうかね。

 これまで何度も事情説明や謝罪の場で、「世間に誤解を与えたことをお詫(わ)びする」というように使われ、誤解という言葉は巧妙に本題をはぐらかす役目を背負わされてきた。誤解とは、間違った理解をしたり、意味を取り違えたりすること。つまり理解力不足ゆえに意味を取り違って正しく理解できない国民や世間の方に問題があると言っているも同然。

 その場にいる記者の方には、そんな苛立(いらだ)つ思いで聞いている国民に成り代わって、せめて「誰がどこをどう誤解しているのでしょうか」と突っ込んでもらいたいと切にお願いしたいのであります。