戦後も続いた孤児の苦難 宮城定吉さん 収容所で(43)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
キャンプ・コザがあった沖縄市嘉間良。道沿いに配給所、軍政府管理事務所、裁判所が置かれた

 コザ孤児院で暮らしていた宮城定吉さん(85)=那覇市=と妹の敏子さんは1945年12月、両親の顔見知りという与那原と真和志の人に引き取られました。どちらも定吉さんの知らない人でした。敏子さんとの寂しい別れが待っていました。

 《私と妹は別々に見知らぬ人に引き取られた。別れの時、妹が「兄(に)い兄(に)いヨー」と言って泣いていた姿は今も忘れられない。》

 きょうだいは離れて暮らし、苦労を重ねます。

 「与那原に預けられた僕は子守とハルサーで2年間、学校に行けませんでした。その後、親戚に預けられ、高校を出ました。妹も病人の看護に追われました」

 2人は5年ほど会うことはありませんでした。学ぶ機会を逸した孤児は多かったといいます。「孤児は皆、苦労したのではないか」と定吉さんは語ります。

 75年前の9月7日、沖縄戦を戦った日米両軍は越来村(現沖縄市)森根で降伏調印を交わします。家族を失った南部の戦場を思い出し、定吉さんは「ひどかった。米軍はあそこまでやることはなかった」と話します。

 戦争は多くの人の命を奪いました。そして、両親を失い、孤児となった子どもたちの苦難の歩みは戦後も長く続いたのです。

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 宮城定吉さんの体験記は今回で終わります。次回から登川吉雄さんの体験記です。