10・10空襲、国場に避難民 金城潔さん 収容所で(54)<読者と刻む沖縄戦>


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現在の国場十字路

 1944年10月の10・10空襲の日、金城潔さん(89)=那覇市=は自宅のある真和志村(現那覇市)国場にいました。金城さん家族は他の2家族と共に集落内にあった壕へ避難したといいます。国場は空襲の被害はありませんでした。

 国場自治会編「国場誌」(2003年)によると空襲で焼け出された那覇の住民が国場に逃れてきます。住民は炊き出しをして避難民を助けました。潔さんの母カマさんも炊き出しをした1人です。

 「那覇から国場に避難民が上がってきました。母はにぎり飯を作って避難民に配っていました」

 潔さんは「10・10空襲まで国場は平安に暮らしていました」と語ります。空襲は住民に大きな動揺を与えました。

 「国場誌」は突然の米軍機の襲来に「村民は茫然(ぼうぜん)自失、まったくなすところを知らなかった」と記しています。真和志村には那覇市の避難民が集まり、人口が4千人ほど増えました。その後、真和志村から県外、本島北部への疎開が徐々に進みます。村民は当初、疎開に消極的でした。

 45年4月1日の米軍上陸の日、潔さんは父の蒲助さん、カマさんらと国場集落の拝所近くの壕に避難していました。上陸前の米軍の攻撃で多くの家屋が焼けてしまいました。

 潔さんは壕のある場所から上空を飛ぶ米軍の偵察機を見ていました