復帰への思い胸に 歓声に緊張 手足震える 151区間に若者3473人力走<沖縄五輪秘話9>


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第45区の正走者としてを堂々とした走りを見せる新里米吉。沿道は日の丸の小旗を持った民衆で埋まっている=1964年9月8日、具志川村内(本人提供)

 炎天下、気温は30度超。右手でトーチを掲げた瞬間、割れるような歓声と拍手の音が強く体をたたいた。緊張で顔が紅潮し、手足が震える。国内聖火リレーの第1正走者、当時22歳の宮城勇(78)=浦添市=が振り返る。「極限状態の中でのスタートだった」。民衆や日の丸の小旗の波をかき分け、聖火歓迎式典が開かれる奥武山陸上競技場へ駆け出した。

 第1区は1・7キロ。「沿道も想像もできないような人と日の丸の小旗。取材陣を荷台に乗せたトラックが前に出てきて写真を撮り、遅れた」。予定の9分を1分10秒過ぎ、火を継いだ。「終わった瞬間はほっとした。身に余る光栄。人生で最高の経験だった」

 沿道の興奮は、そのまま約3万の観衆が詰め掛けた競技場へ。日の丸を胸に付けたランニングシャツ姿の第3正走者、宮城康次が聖火台に火をともし、会場に君が代が流れ、大日章旗が掲揚台のポールをするすると上っていく。翌8日付けの琉球新報朝刊には、聖火を迎えた民衆のコメントが載っている。「若い人たちは日本人としての誇りをしっかりとかみ締めたことと思います」「国旗掲揚、君が代の吹奏に移った時には我を忘れて無意識に手をたたきました」。人々が祖国との一体感に浸るには十分な演出だった。

 沖縄本島を一周する聖火リレーは正走者、副走者、随走者を合せ、1964年9月7~9日に151区間を10~20代を中心とした若者計3473人が駆けた。野山や海岸沿い、戦跡など、沿道は常に日の丸一色。全島の学校や家庭で日章旗が作られ、本番では沖縄戦で亡くなった親族の遺影を手に、平和の火を見詰める人もいた。

米軍は黙認

1964年9月8日付の琉球新報朝刊に載った聖火コース

 終戦年の45年、米軍は沖縄での日本国旗掲揚と国歌斉唱演奏を禁止。サンフランシスコ講和条約が発効した52年には、個人の家屋や政治的な意味をもたない私的な会合における掲揚を認め、61年には法定祝祭日に限り公共の建物への掲揚を許可した。聖火リレーが行われた期間は祝祭日には当たらなかったが、米軍は世界的イベントの祝祭ムードの中、掲揚を黙認した。

 聖火リレーの前月に就任したワトソン高等弁務官は聖火が本土へ渡った4日後の15日、会見でこう述べている。「公共建物への国旗掲揚は米民政府の許可が必要だが、聖火歓迎のため黙認していた」。一方で「沖縄の日本復帰の必要は理解しているが、復帰の時期にはまだきていない」と目に見えて高揚した大衆の復帰願望をけん制。その後、沖縄が復帰を果たしたのは8年後の72年だった。

今も誇りに

当時のアルバムを見ながら、自身も正走者を務めた聖火リレーを振り返る新里米吉=12日、那覇市内

 「あの時は、沖縄の置かれた状況やオリンピックに対する憧れがあの盛り上がりを生んだのだと思う」。前県議会議長で、第45区の正走者を務めた新里米吉(74)=西原町=は懐かしそうに振り返る。当時は前原高3年のバレーボール部主将で、第45区の具志川村(現うるま市)内を1・9キロ走った。「日の丸の小旗が両脇にずっと続く。あれは驚いた」と昨日のことのように語る。

 聖火リレーの前月、石川県であった全国大会に出場し、帰りに五輪本番に向けて準備を進める東京に立ち寄ったという。人生初の本土。国立競技場などを訪れ「全てにおいて沖縄より進んでいた。東京は特にすごかった」。興奮冷めやらぬまま、帰沖して聖火ランナーの大役をこなした。

 あれから56年。「道路や体育館も整備され格差はほとんどない」と沖縄社会の発展を実感する。一方で「復帰の時、沖縄が求めたのは米軍基地の縮小だったが、なかなか進んでいない」と無念さもにじませた。

 来年には2度目の東京五輪の聖火が沖縄へやってくる予定。中学時代は日本代表を目指していたといい「五輪は憧れの大会。正走者に選ばれてうれしかった」と今でもあの経験は誇りだ。議長時代に再度の聖火ランナーを勧める話も周囲からあったが「将来を担う若い世代に走ってほしい」と思いをつなぐ。「次の聖火はどこかで見ようかと思ってる」と話し、穏やかに笑った。

 (敬称略)
 (長嶺真輝)