区民総出で熱烈歓迎  嘉陽区に聖火宿泊 5000人の人だかりで熱気<沖縄五輪秘話10>


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リレー2日目の宿泊地である嘉陽区に到着し、聖火台の横でトーチを掲げる第76区正走者の徳村政勝=1964年9月8日午後5時すぎ、久志村の嘉陽小中学校前(県公文書館所蔵)

 台風の余波で荒っぽい潮騒の音が響く東海岸沿いを、赤橙(だいだい)色に輝く“平和の炎”が白い煙をなびかせながら北上していく。1964年9月8日、沖縄を一周する東京五輪聖火リレー2日目の聖火宿泊地、久志村(現名護市)嘉陽区の嘉陽小中学校前。予定より5分早い午後5時15分、同小の5、6年生で結成した鼓笛隊が響かせる演奏が、那覇市の奥武山陸上競技場から119・2キロを走破した聖火を派手に迎えた。

 校門向かいの公民館や民家の屋根の上は観衆で埋まった。近づく聖火を木によじ登って待つ人の姿も。第76区の正走者、徳村政勝(天仁屋青年会)が校門前に設置された白い聖火台に火をともす。勢いよく燃え上がった炎が秋の夕日に映え、聖火を待ちわびた村中の人々は拍手と歓声に沸いた。

 当時の松永保市久志村長は歓迎あいさつで「聖火が私たちの村に1泊する光栄は、口では言い尽くせない」と感激の表情を浮かべた。村民は奉納踊りや獅子舞など郷土感あふれる催しで聖火を熱烈に歓迎し、校内は夜遅くまでお祭り騒ぎに。琉球政府の広報誌「琉球のあゆみ 第七巻第9号(通巻59号)」は「嘉陽は人口わずかに350人、しかしこの日は近郊の部落民が繰り出したため、約5千人の人でごった返した」と熱気を伝える。

準備に奔走

 嘉陽区が聖火の宿泊地に内定したのは本番半年前の3月上旬。同区では58年に東京で開催された第3回アジア競技大会の際も聖火リレー団の宿泊地となったが、その時は受け入れ体制が整わず、分宿場が不足し、一団には名護町(当時)まで行って一夜を明かした人もいたという。その反省を踏まえ、久志村は受け入れ用の予算を計上し、議会は全会一致でこれを承認。内定直後から準備に奔走した。「聖火歓迎の責任者だった父は、聖火が来る前はほとんど家に帰ってこなかった」。そう振り返るのは、名護市久志支部体育協会顧問の比嘉達也(66)だ。父の栄一(故人)は当時久志村総務課で課長を務めていた。当日は式典の後、聖火沖縄リレー実行委員会の役員や報道陣ら約200人が宿泊する予定だったため、米軍キャンプ・シュワブの軍人も野営テントの設置などで協力した。比嘉は「米軍関係者もよく家に来て、父と準備の調整をしていた」と思い返す。

9月に設置された、聖火台などの歴史を紹介する説明板の横で笑顔を見せる宜寿次聰(左)と比嘉達也=13日、名護市嘉陽

 自身は当時、久志小の4年生。地域のスターだった聖火ランナーや式典の様子がまぶしく映った。「これまであんなに多くの人を嘉陽で見たことがない。自分もランナーとして走りたかった」と懐かしそうに頰を緩める。

 そして再び巡ってきた東京五輪の開催。今回も嘉陽区は聖火リレーのルートに決まった。久志支部区長会は今年9月、今も残る聖火台の横に歴史を記した説明板を設置。地域は2度目となる歓迎の準備を進める。

豪勢ケーキに誇り

ケーキ製作に関する思い出を生き生きと語る白バラ洋菓子店の比嘉行信会長=16日、那覇市長田の本社

 白バラ洋菓子店(那覇市)の創業者で、現会長の比嘉行信(81)も嘉陽の式典に関わった一人だ。県公文書館所蔵の写真の右端に写る5段づくりの豪勢なケーキを三つ上の兄・行雄(故人)と製作した。

 2人はサイパンで生まれ、戦後に引き揚げた後は嘉陽と隣接する安部で育った。聖火リレー当時は、那覇市の開南に開いた「比嘉洋菓子店」を共に営んでいた。2人は嘉陽小中学校の卒業生だったため、比嘉は「兄が主体で作ったので、兄が依頼を受けたんだと思う」と記憶をたどる。

 ケーキはバタークリーム作り。洋菓子店で作った素材を車で現地の公民館に運び、職員を含め4、5人で、4日ほどをかけて製作したという。比嘉は「懐かしいね。みんな一生懸命やった。式典で作れたことはありがたい」と目を細める。長男で現社長の恭一(52)は父が若い頃に「当時は一大イベントだった。オリンピックの記念で自分がケーキを作ったんだよ」と誇らしげによく語っていた姿が印象深く記憶に残る。

 来年の聖火を「まだお兄さんも元気だったらまた一緒にケーキを作ったかもね」と少し寂しそうな表情も浮かべる比嘉だが、56年前は製作後に店に戻って聖火とはすれ違いだったといい「次は見てみたいですね」と穏やかに笑った。

 (敬称略)
 (長嶺真輝)