地域の行事もフェンス越し 基地の中の古里に読谷・旧牧原集落住民の願い


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
フェンスの先にあるチチェーン御嶽に手を合わせる旧牧原集落の出身者ら=10月25日、読谷村

 【読谷】心のよりどころは今もフェンスの向こう側に―。戦後、米軍に居住地を強制接収された読谷村旧牧原集落。土地を奪われても、旧集落出身者の心から古里の記憶が薄れることはない。旧暦9月9日(クングヮチクニチ)に当たる10月25日、米軍嘉手納弾薬庫地区内にある拝所「チチェーン御嶽」前で例祭が行われ、村内外に住む出身者ら約30人がフェンス越しに手を合わせた。「いつの日かもう一度、古里の地を踏みしめてみたい」。高齢化した参列者らは口々に語った。(当銘千絵)

 牧原集落はかつて琉球王府の牧場で、廃藩置県前後に失職した士族が入植、開墾して形成された。戦前を知る人たちによると周辺一帯は景観豊かな自然に恵まれていたという。

 しかし集落は終戦後、全域が米軍に強制接収された。土地を追われた住民は読谷村比謝、伊良皆にまたがった地域を中心に新しい集落を形成した。

 チチェーン御嶽を取り巻く環境も時代とともに変わっていった。かつて住民らはフェンス内に自由に出入りし、拝所で祈願したり、旧盆にはエイサーを奉納したりしていた時期もあった。しかし2001年の米同時多発テロ以降はセキュリティーの厳格化で、それもできなくなったという。

 「とてものどかな場所だった。目をつぶると、子どもの頃の記憶がよみがえり胸が締め付けられる。古里をとても懐かしく感じる」と話すのは、例祭に参列した旧牧原出身の國吉とみ子さん。フェンスから約30メートル先にある御嶽をじっと見つめ「もう一度、古里の地を踏んでみたい」と語った。

 牧原区の與古田松吉自治会長は「牧原の人々は今もなお戦争に翻弄(ほんろう)されている」と断言する。戦後75年たった今も、多くの人が古里や心のよりどころを奪われたままの生活を強いられていると訴える。

 高齢化も重なり、区としてせめて御嶽前で拝めるようフェンスの移動を読谷村や国などに陳情していく構えだ。その上で與古田自治会長は「本来なら国の責務で戦後処理の一環として考えてほしい。先人たちが入植開墾した大切な土地を守ることが、今生きている僕たちの役割だ」と述べた。